妥協せざる人々

映画館に観にいった映画についての感想文。

ドグマ・不純の誓い
―于颪辰娠撚茲亡脅佞靴燭
⊂暖饉圓箸靴討領場を明確にするぞ
1撚茣嫋泙竜_颪浪真佑砲睚薪であれ
け撚茲呂燭世修譴世韻農斬なんて持ち込むな
ケ撚茲乏壁佞韻鷲要ない
ι埔鰺な文章で失笑を買え
他人の価値観からの脱却を図れ
╋欧覿欧訖様佑竜せちを逆撫でてみろ
ナンバー・ワンではなく、ロンリー・ワンを目指せ(泣)
“映画好き”を自称しつつそれを貶める人間に憧れろ(号泣)


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お詫び
ただいま、個人的な理由により映画鑑賞が困難となっております。テレビ放送、あるいはビデオグラムなどでは鑑賞しておりますが、映画フィルムと劇場スクリーンがあってはじめて映画鑑賞が完成するという考えの下、当ブログのテキストは、劇場での鑑賞作品の感想に拘らせていただきたいかと存じます。暫しお待ちいただければ幸いです。
お知らせ
おかげ様をもちまして“未公開または書きかけ”のテキストが100を越えました。観たこと自体忘れている作品も少なくありません…。こんな僕を許してください。
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天使の幻影  悒螢奪ー』
JUGEMテーマ:映画


  .侫薀鵐愁錙Εゾン監督作品『リッキー』

09年/フランス:イタリア/90分/カラー/ビスタサイズ/ドルビーデジタル 映倫レート G(どなたでもご覧になれます)、番号45157 配給: アルシネテラン 原題:RICKY 字幕翻訳:竹松圭子 個人的タイトル『フランソワ・オゾンの幸福』

予告編


 フランソワ・オゾン監督の作品は、ユーロスペースで紹介されてからずっと追ってきたつもりだったのですが、『8人の女たち』[02年]は観逃してしまいました。まっ、苦手なミュージカル仕立てなんて紹介されていたので意図的に外した(同様の理由で『シェルブールの雨傘』[64年]や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』[00年]なども…)とも言えますが。カトリーヌ・ドヌーブ出演で、女性雑誌に煽られた香水プンプン有閑おばさん動員もちょっと怖い。それどころか『エンジェル』[07年]なんてやってることさえ知らなかったなんて我ながらどうかしてると思います。死んでたんでしょうか?死んでました。 とりあえず1月に『ゴダール・ソシアリスム』を観にシャンテに行った折、在庫整理なのかパンフレットが半額だったので今のうちに買っときました。あとは観るだけです。

 オゾン作品にはいつも毒がある。それは少し暗めで粗い画調(全編自然光撮影?)とともにオゾン作品を特徴づけている。個人的には『ふたりの5つの分かれ路』[04年]がまず思い起こされる。意図的な時間軸の操作によって作り出される愛の皮肉。こうすれば永らえたかもしれない、ではなくこうなるしかなかったという女と男の分岐点。このようなオゾン監督の性格の悪さに、私はいつも魅了されている。異性愛の終末を見つめる醒めた眼差し。しかしそれは、コンセンサスに回収されるリスクヘッジ商業映画に与しないための作家としての真摯な態度だろう。この『リッキー』でもファースト&ラスト・シーンがひと続きではないか、と私は考えた。間に挟まれる出稼ぎ野郎(ファスビンダー…)と赤ちゃんの件は、主人公カティ自身の幻想であってラストの妊娠でさえそのように思えるのだ。冒頭で彼女は、子供(娘)を施設に預けたいと相談し涙を流している。憔悴しきりシングルマザーとして生きていくことの限界を訴えるが、受け入れてもらえない。更なる自助努力を求められるのだ。この無責任さ。満ち足りた者は、負債の存在など眼中になく誰もが有形無形の遺産を相続したように錯覚し、他者の懇願を社会的依存だと断罪するのだろう。ゼロからではなくマイナスから人生を始めなければならない人々に対する決定的な意識の欠落。世間の仕組みはまだその程度だということだ。そこから現実と幻覚の錯綜が始まる(ロトくじがはずれる→当たる、男が去る→舞い戻る)のだ。不敵な笑みを浮かべるラストの彼女は、けして幸福に包まれているのではなく精神的なある一線を越えたのだと私はみたい。それはオゾン作品の今までの登場人物たちのように。

 カティは社会の片隅で生きるひとりの女でしかないが(原案はイギリスの短編小説で、それはダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』[99年]を思わせるとオゾン自身がインタビューで答えている)、羽根の生えた赤ちゃんを授かったことによって、衆目の的になるなどという現実ではありえない設定(エイズの時代に初対面の外国人労働者とセックスができるのか?)が意地悪に過ぎるだろう。突然訪れた実体なき実存のインフレ。赤ちゃん部屋のかわいいクロスを見ると、アラン・ルドルフ監督の『メイド・イン・ヘブン』[87年]を思い出したりもするが、これはそういったファンタジーの様式を借りながら反転させたものなのだ。いわばオゾン流の社会批評といった類のものではないだろうか。(結局は羽根が生える前ぶれである)赤ちゃんの背中のアザなどは、彼女が男から受けたドメスティック・バイオレンスの暗示としか思えない。ただマルコ・フェレーリ(『未来は女のものである』[84年]など)作品のグロテスクが救われないほど容赦がないのに比べて、これはフランスのエスプリに留まっているように思える。また、マリナ・ドゥ・ヴァン独立以降は特に、被虐的具体描写は希薄になっているようにも感じられる。かつてブニュエルが登場人物たちそのものを注視したのに対して、ここではむしろ見えない周辺の無慈悲と孤独を際立たせている。

 最新作『しあわせの雨傘』[10年]が矢継ぎ早に公開される。またまたカトリーヌ・ドヌーブ出演で、映画など本当はどうでもいいおばさん方の爆睡いびきを聞かなくてはいけないかと思うと気が滅入る。いや、こういう方々が映画興業を支えているのだ。 それはともかくとして、本作との間に『LE REFUGE』(製作は本作と同年)という作品があるようで、やはり妊婦が登場するようだ(もっともオゾン作品に妊娠や赤ちゃんは比較的多く登場はする)。そこではカップルの男の方は直ぐに死ぬらしく(女は愛の枠組みから放り出され孤立する)、どうも本作と対の関係にあると思える。配給が期待されるところである。

 パンフレットは700円。BUNKAMURA ル・シネマのパンフレットシリーズ(通し番号なし)。印刷/ジャスト。製本所/表記なし。編集とデザイン/稲田隆紀、中村由紀子、アイ・プランニング。A4変296×225中綴じ縦左開き表紙込み24P。シナリオ採録なし。表紙4P(内表2写真、表3広告、表4クレジットと奥付)、目次1P、写真2P、中村うさぎ(エッセイスト)テキスト2P、黒田邦雄(映画評論家)テキスト2P、鏡リュウジ(占星術研究家、翻訳家)テキスト1P、解説1P、物語1P、キャスト紹介2P(6名内、アレクサンドラ・ラミーとセルジ・ロペスはミニインタビューも)、フランソワ・オゾン監督インタビュー2P、スタッフ紹介1P(監督含む8名)、ピエール・ビュッファン(SFX会社代表)インタビュー1P、ル・シネマ次回ラインナップ紹介とパンフレット・バックナンバー一覧1P、オフィシャルサプライヤー広告3P。評価:公式サイトにあるイントロダクションのテキストはパンフにはない。ストーリーやスタッフ&キャスト紹介も(似てしまうのはしょうがない)書き方を工夫している。そのまんま流用ではないので誠実であることは間違いない。ただオフィシャルサプライヤー広告が4Pなら料金設定は500円かなと。700円ならシナリオ採録で。サイズもB5だとありがたい。




公開資料

チラシ


新聞広告(L→R 毎日夕11月26日・朝日夕11月26日・読売夕11月26日・読売朝11月27日)



 ▲▲襯痢次Ε妊廛譽轡礇鶸篤頂酩福悒リスマス・ストーリー』
    →2月19日付


月は地獄だ!  愀遒房われた男』
JUGEMテーマ:映画

.瀬鵐ン・ジョーンズ監督作品『月に囚われた男』

09年/イギリス/97分/カラー/スコープサイズ/ドルビーデジタル 映倫レートG(どなたでもご覧になれます) 配給: ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント(クラシックス) 原題:MOON 字幕翻訳:小寺陽子 個人的タイトル『Amaizing  Cicada Man!』『アイ・スペア』

予告編


 予告編を偶然観たのですが、どう考えてもダグラス・トランブル監督作品『サイレント・ランニング』(72年)に影響を受けているようなので興味を持ってしまいました。『サイレント・ランニング』は、日本での劇場公開が86年で既にカルト化していた気がします。しかしもう24年も経っちゃったんですね。ちょっと勘弁してよ、であります。劇場は、今はシネクイントになっているSPACE PART3(当時は多目的ホール)。当日の直前には、ユーロスペースでマイケル・ホッジス監督の『モロン』(84年)を観ているので、マイSF大会だったようです。しかもその前の週には、ジェームズ・キャメロン監督作品『エイリアン2』(86年)を観ています。実は、その月の前半が、「アテネフランセ」と「スタジオ200」での爛侫譽妊・M・ムーラー監督特集瓩如△垢辰り頭がクラクラしてしまったためのリハビリ的映画観賞だったのではないかと。なにせそれを遡る3か月前のPFFで、ジョン・ウォータース監督作品『ピンク・フラミンゴ』(72年)とケネス・アンガー監督特集で頭脳を破壊されてますんで、非常に脆くなっていたことは事実です。翌月はついに1本も映画を観ることができなかったのでした。

 しかし映像がスタイリッシュだからといって、例えばローマン・コッポラ監督作品『CQ』(01年)みたいな、特撮映画(こっちはロジェ・ヴァディム監督作品『バーバレラ』(67年)とかかな?)にあこがれつつも結局はフェデリコ・フェリーニ監督の『8 1/2』(63年)のような内幕もの、映画好き(=オレ様)が映画を作ることの映画を作ってみました〜風味になっている可能性も否定できず注意が必要です。つまり作ることだけが目的化して中身ピーマンかもという不安。ただ、オールCGではなくミニチュアを使用した特撮は、撮り方も工夫されていて悪くない印象。監督ダンカン・ジョーンズは、あのディヴィッド・ボウイの息子らしいのですが、親の知名度は子供の才能の保証にはなりませんのでね。仮にセンスが良くてもそれはボウイとは直接関係ありませんので。 例えおやじが『スペース・オディティ』(69年)作ってニコラス・ローグ監督作品『地球に落ちてきた男』(76年)に出演したとしてもね。と、血統を無自覚に称賛&中傷することを、厳に戒める私なのであった(なんのこっちゃ)。

 確かに、『サイレント・ランニング』の強い影響下にあるようだ。イギリス製作で月が舞台ならばTVシリーズ『スペース1999』(74年)なども思い浮かぶだろう。そして、クローンと記憶、背後にある陰謀を見るのならフィリップ・K・ディック原作の諸作品をも思い出すかもしれない。しかし、プロダクション・デザインや状況設定、演出に注目すればスタンリー・キューブリック監督作品『2001年宇宙の旅』(68年)はそれら以上に影響を与えているようだ。地球にいる家族との会話、出来立ての宇宙食に熱がったり、会話型制御ロボットとのやりとりなど枚挙にいとまがない。ただ、ここでは『サイレント・ランニング』のように、カウンターカルチャーとしてのユートピア指向、或いはグローバリズムからの良心的回避=アンチ環境破壊を扱っているわけではない。『2001年宇宙の旅』のように、システム化が人生を矮小にしていく進化の皮肉と、それを克服するための哲学的考察があるわけでもない。ではこの映画では何が描かれているのだろうか?パンフレットの監督のコメントによると、経済の要請によるグローバリズムの先にあるであろう宇宙の大航海時代(=資源調達)へのまなざし。そこには現在と変わらない費用対効果至上主義の中での人間疎外・労働搾取があるだろうという問題提起のようだ。しかしそれは、最後の最後に取って付けたようにナレーションで説明され、しかもTVドラマ『ザ・ハングマン』(80年)のように勧善懲悪として処理されるのだ。全体の雰囲気が嫌いではなかった私にとって、この唐突な大衆迎合的ご都合さ(ロボットの心変わりも…)はとても残念に思うのだが、これとてディヴィッド・ボウイのせいではない。しかし『2001年宇宙の旅』の、目的地までは棺桶のような装置で冷凍睡眠されている乗組員たち(クローンが隠されている場所も霊安室のようだ)や、ラスト付近にある自分が未来の自分に出会いながら老いていき、最後は超人として輪廻転生するというシーンに感化されながら、自分はオリジナルではなくクローン(コピー)であって、しかもそれが連鎖している、つまり追体験がエンドレスで繰り返される中のひとつでしかないことに主人公が気づくという、この残酷極まりない映画の製作を思いついたのだとしたら、『A.I.』(01年)を準備して成し遂げられなかったキューブリック監督は、果たしてどう思ったのだろうか。なぜ人々は、オリジナルを標榜する定型化された情熱に心を奪われながら、ときとして破天荒を蔑もうとするのか。自分がコピーだとも知らずに…。

 私はこの映画に二つの想いを抱いた。ひとつは、地球とのリアルタイム交信が禁止されていることに不審を抱く“彼ら”が、そのバリアを解くために電波塔基地を破壊するシーン。雇用先がハングル系企業であれば、ラジオのチューニングは固定されているという北朝鮮の閉塞状況を揶揄したのではないかと想像してみる。隠ぺいされ飼い慣らされることとは?ルーチンワークで見失っていく政治性とは? もうひとつは、主人公が何度か妻とのセックスの幻想を視るのだが、それは地球へのノスタルジー的表現というより、生命誕生にメスのDNAですべてが賄える時代に於ける“終末のオス”の疎外感を感じるのだ。問題になっている精子の減少は、自然の摂理なのかもしれない。意味を無くしたオスは家族から捨て去られるかもしれない、という強迫観念。まるで関白失脚だ。それは愛に昇華される物語の一形式の終末でもあるのだろう。ボーイはガールに出会えないで幻影に自閉する。世の流れは、現実を逃れ単純で保守的なものに反動化しているようだが、真実のストーリーテラーに、未来はあるのだろうか。いや、男はもっと粗野な思い上がりと自己救済としての主権回復に特化すれば生き続けられるのだ。そのためにはなり振り構わず暴力を振るいますのだ。バーロー。文句あっか。ニャロメー!。これでいいのだ。人類の夜明けに逆戻りですのだ。

 パンフレットは600円。ガーデンシネマ・イクスプレス(号数表記なし) 印刷/大洋印刷。製本所/表記なし。デザイン/平原史郎。182×182中綴じ横左開き表紙込み24P。シナリオ採録なし。表紙4P(表2は受賞歴、表3ベタ、ウラ表紙に英字クレジット)、写真などのページ計8P、イントロダクション2P、ストーリー 1P、キャスト&スタッフプロフィール(7名)1P、サイエンスノーツ(ヘリウム3について)1P、プロダクション・ノート2P、ディレクターズ・メッセージ1P、大森望(SFな評論家、牘宙の話なのに派手なスペクタクルは一切なし瓩辰謄イ)テキスト2P、クレジット&奥付1P。評価:ストーリー 、キャスト&スタッフプロ フィールは公式HPと同文流用、無償配布〜300円の範囲でお願いします。



 こういうデザインは絶対モアレるからさぁ…。

公開資料

チ ラシ


 星の王子様風デザイン。ロゴタイプは『抱擁のかけら』に似てるような…。

新聞広告(L→Rいずれも夕刊、読売3月26日、朝日3月26日16面・3面、読売4月2日、朝日4月2日、朝日4月5日、朝日4月8日、読売・朝日共通絵柄4月9日、朝日4月23日)  宣伝担当者は朝日購読者をターゲットにしているよ うです。毎日には入れなかったのでしょうか。




 ブルーレイそしてサントラ。国内盤は出てないようで、これは輸入盤です・
下界の煩悩、山上の自殺  悖r.パルナサスの鏡』
JUGEMテーマ:映画 

.謄蝓次Εリアム監督作品『Dr.パルナサスの鏡』

09年/イギリス:カナダ/124分/カラー 配給:ショウゲート 原題:IMAGINARIUM OF DOCTOR PARNASSUS 字幕翻訳:松浦美奈(女帝) 個人的タイトル『わしと悪魔のクロスロード』

予告編 





 テリー・ギリアム作品ってのも申し訳ないくらい観ていないのであります。『未来世紀ブラジル』(85年)をリアルタイムで観てからというもの『ローズ・イン・タイドランド』(05年)までの20年間すっ飛んでます。自分のことながらいくらなんでもおかしいんじゃないかと思います。なんで『ラスベガスをやっつけろ』(98年)くらいは観ていないのか。これじゃ映画ファンなんて言えないはずです。言えなくても結構です。日本での扱われ方も作品によってマチマチな気がします。ある時は単館アート系、でも今回は堂々全国ロードショーです。まっ、亡くなったヒース・レジャーさんの遺作でジョニー・デップさんもご出演ということもあるとは思いますが。その反対に監督の鬼才という評価が一人歩きしてちょっと鬱陶しい。撮影現場でトラブル続出なんて言われていますけど映画製作者なら大なり小なり経験しているはずなので、別に特異なことではないでしょう。個人的には出自であるモンティ・パイソン〜ラトルズ、ボンゾ・ドッグなんて周辺も含めて今のところ積極的に知ろうとはしてません。修行が足りないんだと思います。でも反省しません。しばらくそのままにしておきます。冗談はともかくモンティ・パイソンなんかを機械的に思い出すより先にテリー・ギリアム監督の作品からは、アメリカの作家スティーヴン・ミルハウザーが思い出されてしまうというのが正直なところです。それは世俗を離れ内向するある意識が作り出す幻影が、現実を凌駕していくということです。

 『ローズ・イン・タイドランド』(鑑賞テキストは絶賛未公開で途中放棄)で興味深かったエピソードは、隣に住む(知的差別を受ける)青年が起こす列車の爆破=テロリズムだった。社会的格差の本質とは何なのか。ロックスターという浮草稼業の親を持つ少女が、世の中が実は水平でないことを思い知るといったストーリー。しかし少女はすべての想像力を動員してそれに抵抗を試みるのだ。暗示されているのは、彼女が列車の乗客であった女性の養子になることだ。それは世間的に真っ当と見なされる真に親と言える存在にたどり着くということなのだろう。しかし、その存在を心から愛することはできるだろうか。理想と現実的な幸福の定義は複雑になってくる。しかも友達になったその青年の思いは、差別する側への無意識的な憎悪なのだからとても判りづらい。“ジハード”とは自分の無二の時間を犠牲にする以上、おそらく他人のロマンチシズムを代行することなのだろう。でもそれは一方通行でヒューマニズムがない。こういった断片を手がかりに『Dr.パルナサスの鏡』を観るしか手立てがなさそうだ。そしていきなり結論から始めたい。人々がみな瞑想を始めて“語り”が画一化した時代に語られる物語とは、すべてホームレスじいさんの願望なのだった。本来は施される側の立場と物語の主人(=神)とが転倒している構造はとても皮肉なことだろう。話の道連れは高級レストランで仲睦まじく食事をするハッピーファミリーだ。当然本人たちは何も知らない。じいさんの物語のためのキャラだから。

 今、頭から離れないのは富の再分配と詐欺の関係だ。詐欺師にとっての最終願望、それは詐欺行為が社会的に公認・正当化されることだろう。しかし当然それはあり得ないことだ(商売のいくらかは詐欺まがいなのだが…)。だからこそロマンになる敗北主義なのだ。最近でも疑似電子マネーに関する顛末(爐海鵑柄農欧蕕靴い發里呂覆ぁ△△覆燭發笋辰討澆燭薛瓩箸い洗脳おばちゃんが忘れられない)を私たちは見てきた。サブプライムローン騒動などに見られるように、信用に対する共通認識は瓦解したことだろう。リスク回避、それ自体が世界的リスクになるというダイナマイトな連鎖は、学習できずに何度も繰り返す。時は2007年、所は金融の中心都市ロンドン。風来坊のテキヤのじいさん=パルナサス博士は苦悶している。何も所有しないわしが富を得るための手段として悪事に手を染めるべきかどうかと。紙でできたミニチュア劇場キットを売るだけでは相棒のチビ助(ハンプティ・ダンプティか?)とは食べていけそうにないのだ。あとは首を吊るだけである。そこでこの事態を悪魔からの誘惑だと考えてみる。博士はつづけて夢想する。わしは旅回りの奇術劇団の頭領だ。この世にひとつしかない魔法の鏡を使って、世にある余ったお金を集金して回ることにしよう。それは必要とする者への能動的再分配と言っても良い。年寄りのわしでは人目を引かないだろうから、トニーという名のイケメンなオルター・エゴを作ろう。アイ・キャッチングはアドバタイジングの基本じゃからの。キャラ設定は恵まれない子供たちのためのチャリティー基金を設立したもののマフィアのマネー・ロンダリングに利用されてしまい世間からの糾弾の末行き詰った男、と。さてさてまずは脳ミソ空っぽの有閑マダムたちから戴くとしようかな。鏡の中に入れば彼女たちの物欲、美と若さへの執着、そして梯子を昇って天までいく上昇志向。こういったものを満足させられることじゃろう。御代はブランドもののバックまるごとでございとな。これで貧乏にゃバイヨン。これはすべて永遠の生との引き換えに交わされた悪魔との契約なのだから後ろめたさもないのじゃ。どうせだからこの際テキヤ稼業の敵、警察もついでにからかっておこうかの。お尻を出してキス・マイ・アスホ〜ル!

 最初は順調だったのに、うまいことは長くは続かないものじゃ。大金といかさまの臭いは隠せんもんらしい。皆の衆ご注意あれ。警察とマフィアという暴力の表裏に追われてもはや万事休すの様相じゃ。仕方ない、もう輪廻に頼るしかないじゃろう。生まれ変わってゼロベースで始めるのだよ。永遠の生に肉体は同行できないのか。悪魔め嘘つきやがったな。ほんじゃま、グレイトフル・デッドに向かって山頂へまっしぐらじゃ。

 自分の預かり知らない原因で身の振りを迫られる罪と罰の物語といえば、今年最初に観たタル・ベーラ、フラニツキー・アーグネシュ共同監督作品『倫敦から来た男』もそうだと思います。07年の作品であり、両作品とも経済を中心とした世界的世情を反映していると言っていいのではないでしょうか。『倫敦から来た男』ではパーソナルな問題として描かれていましたが、ここではもっと大きな普遍的な問題として扱っているようです。

 パルナサス博士役はクリストファー・プラマーさんですが、個人的にはジョン・ハートさんだったらうれしかったです。悪魔役は、最近旧作のリイシューもされ歌手としての再評価が期待されるトム・ウェイツさん熱演です。こんなにいっぱいトムさんを観るのは、『ラ・ボエーム』(08年)のロバート・ドーンヘルム監督作品『チキンハート・ブルース』(89年、後楽園のシネドームにて観賞)以来かも。ヒース・レジャーさん代役の3人はやっぱ急場しのぎの感が否めません。ギャラをヒースの残された子供にプレゼントというエピソードは泣けますが。

 パンフレットは600円。印刷/アベイズム(東宝なのに成旺印刷ではない)。製本所/表記なし。デザイン/平塚寿江。240×258中綴じ横左開き表紙込み40ページ。シナリオ採録なし。表紙4P(表2は写真、クレジットと奥付)、写真のみページ計18P、イントロダクション2P(主なテキストは1P)、ストーリー2P、立田敦子(映画ジャーナリスト)テキスト2P、キャストプロフィール(トニー役3名)1P、キャストプロフィール(その他5名)1P、リリー・コール:インタビュー1P、アンドリュー・ガーフィールド:インタビュー1P、テリー・ギリアム監督インタビュー1P、黒田邦雄(映画評論家)テキスト+テリー・ギリアムプロフィール2P、プロダクション・ノート3P、映画に関するトリヴィア1P、スタッフプロフィール(5名)1P。評価:キャスト&スタッフプロフィールは公式HPと同じですが、他はテキストの書き方を変えていて(内容的には同じでも)流用・共用といったレベルではないと思います。まったく同じテキストではない努力はしてます。写真ページを削って36ページ500円でお願いします。



公開資料

チラシ2種
 

新聞広告(L→Rいずれも夕刊、読売1月8日・毎日1月15日・朝日1月15日・読売1月22日・朝日1月22日・朝日2月18日・朝日2月26日)



 ジェフ&マイケル・ダナ兄弟担当のサウンドトラック盤は、ジュネオン〜ランブリング・レコーズより発売されています。プレス枚数が少ない?とはいえ2200円くらいになりませんかね。観賞券持ってくと割引あるとか。ところでマイケル・ダナさんと言うとアトム・エゴヤン監督を思い出しますが、『秘密のかけら』(05年)以来輸入が途絶えてるみたいです。好きなのでどこか配給お願いします。
 
ボーイ・ミーツ・アナザー・ワールド ◆愍さな冒険旅行』『ユンボギの日記』
JUGEMテーマ:映画
 

タル・ベーラ:アニエス・フラニツキ共同監督作品『倫敦から来た男』
    →1月24日付

大島渚監督作品『小さな冒険旅行』

63年/日生劇場映画部/60分/カラー フィルム状況:キズ・欠落はないようだが超退色、脱色でほとんど黒白状態につき不可。 個人的タイトル『渡る世間は鬼は外、福は内』

 フィルムセンターで1ヵ月開催の「映画監督 大島渚」特集であります。現場は例のごとく加齢臭うずまいておりますよ。もはや他人のことは言えませんが…。いや、しかし何年か映画を観てますと、レトロスペクティヴやってる最中や直後にご本人がお亡くなりになられるケースを内外とも何度か経験しているものですから、今回もちょっとヒヤヒヤしてたんですよね。ましてや去年だって川崎市市民ミュージアムの特集から始まって、ぴあでも「大島渚講座」なんてやってたし、続いて近くのシネパトスでも特集やってましたから嫌〜な胸騒ぎというものです。何なんだこの企画の重複ぶり。御身体いかがなんでしょうか大島監督。それはともかく大島渚という名前をはじめて知ったのは私がまだ小学生だった頃、NETの「奈良和モーニング・ショー」での人生相談のコーナーであります。型板ガラスの向こう側で苦悩する一般参加者に、裁判長のごとく問題の解決と今後の生活の指針を与えるという“怖いおじさん”という感じでありました。大島渚は閻魔さまか。

 実際にその作品を観たのは高校生だった83年の『戦場のメリークリスマス』でした。ビートたけし(当初は緒方拳さんだったとか)とYMO坂本龍一の当時飛ぶ鳥を鉄砲で撃つ勢いのふたりを起用したことで大ヒット間違いなしと。たけしMCのオールナイト・ニッポンでも散々ネタになってましたし純朴な少年(どこがじゃ)は簡単に騙されてしまいましたよ。でもほとんど爆睡してましたんで 客電がつくと劇場内にはクラスメイトの顔顔顔…て言うか学生服の一団が劇場を占拠。青春の汗臭さが場を席巻!今ではダサいとしか思えない山本寛斎デザイン“THE OSHIMA GANG”のシャツ欲しい、などという思い出。一種のお祭り騒ぎでしたね。サントラも買っちゃったし。ですからその後の87年に文芸地下劇場で当時の最新作『マックス・モン・アムール』(86年、あれっ、今回上映がないのはなぜ?)の公開記念で行われた「大島渚ワンマンショー」で一連の作品に接した時はさすがに驚きました。この乖離ぶり。浮かれ気分の若造がいきなり横っ面を引っ叩かれたかの衝撃。でもほとんど爆睡してましたんで 私が思うに『夏の妹』と『愛のコリーダ』には製作姿勢に大きな溝があるのではないかと。『愛のコリーダ』では性描写演出の挑戦=ハードコア導入という世間的に大いに騒がれたオモテ側の影には大島渚自身の、世界に打って出る売名行為=主体的権力闘争があるように思えます。俺はこの程度のバジェットの作品群で終える人間じゃねぇぞ、と。あるいは日本映画はついに文化的余裕を失って、お気楽な娯楽作品に占有されて居場所が無くなったとも考えられます。自主的事業仕分けかよ。私の興味は『夏の妹』以前の作品群です。おそらく今後もその考えは転覆することはないと思います。それに『日本映画の百年』(95年)というテレビ作品も観たのですが、日本映画のというより俺の映画回顧録といった感じで、ラストで何気に“崔もたけしも俺の弟子なのよ”みたいな感じになっててあらら〜と。しかもまさかの紫綬褒章受章でダメ押しだもん。10年経ちますが『御法度』(99年)は怖くて観れてません。観ないんじゃないかな、まちょっと覚悟はしておけ〜。

 そんな訳ですから、今回の特集上映もほとんど用は無かったのですが、どうせなんであまり見かけない作品を観ようということでこの作品となりました。本当はいすゞのPR映画『私はベレット』(64年、日産がバブル期に作った『フィガロ・ストーリー』(91)みたいなものか?)という作品を観たいのですがやらないみたいなので残念。フィルムセンターには所蔵してないのかな。『戦場のメリークリスマス』公開記念に三百人劇場で行われた「大島渚の全貌」では全部やってるみたいですが。国立美術館でのレトロとしては今回の企画はちょっとショボイと思います。

 大島渚の63年というと前年に東映京都に招かれて大川橋蔵主演『天草四郎時貞』を監督するものの興行的には成功しなかったとされており、その所為か65年の『悦楽』まで劇場公開作品はない。企画が流れたということもあるだろう。その合間のテレビないしPRの仕事である。既に松竹を退社、独立プロダクション創造社を立ち上げていた。これは作られたばかりの日生劇場の製作で原案は石原“裕次郎の兄”慎太郎。日下武史も出演しており、別にオペラ歌唱シーンなどもあるから劇団四季・浅利慶太も絡んでるのかどうか。今では考えにくい組み合わせ。期待される若い情熱の行きようは同じではない。PR作品として製作されており(日本生命がよく『日本の夜と霧』の監督に依頼するものだが)原案もあることから、他の大島作品とは単純に比較検討できない。それに少女がパリの現実を目撃するルイ・マル監督作品『地下鉄のザジ』は60年に製作されてもいる。しかし坊やが紛れ込むビルの建設現場、アパートでの新生活、押しくらまんじゅうの通勤風景、忙しなく顔の見えない遊園地や競馬場の客などを観るにつけ、時は東京オリンピックモードでもあり都市化が郊外へ拡散する東京、あるいは大家族のなしくずし的崩壊、個人の矮小化というテーマは見つけ出すことができる。坊やの不在に気づく家族はおらず奇跡的に帰宅できたことによってこの話は終わる。たったひとりの記憶は幼児ゆえにあやふやになる。雷門の前で見かけた靴みがきたちも浜村純のバタヤのおっさんも、坊やが大人になる頃にはどこへともなく姿を消すのだろう。静かに忘れ去られていく何か。私はゼネコンがやっていることは風景の戦後処理だと思っている。闇市などから発展した駅前商店街の破壊と再構築。それは敗戦の記憶の視覚的歴史修正なのだろうか。街は整理されているのかどうか、本当のところはわからない。(アントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリアは、建設中であり続けることによって特定の時代の付帯に抗っているのだろうか?)

 今思えばニッセイのおばちゃん(中北千枝子を起用してむしろやさしくいくらか若いおばあちゃんというイメージ)とは、だから核家族への移行を的確に捉えたマーケティング&メディア戦略なのだ。人と貨幣との価値順位はお茶の間の現場でも転倒する。安心感は契約によって手に入れなければならない。このことはこの後66年にゴダールが監督した『彼女について私が知っている二三の事柄』にも呼応する(女性は個人の時間を獲得する)から、先進国共通の時流だったのだろう。それとも10年後に、それこそ子供の視点(小津ポジション)で撮られた『東京物語』(53年)へのアンサー・フィルムとも考えられる。それはもう大船調といった情緒が完全に成立しないことの表明でもある。


B臈臀躊篤頂酩福悒罐鵐椒の日記』

65年/創造社/25分/黒白 フィルム状況:可。 個人的タイトル『転んでも立ち上がる』

二度目の鑑賞。創造社による自主製作。65年は敗戦後20年である。ということは韓国の日本支配からの開放20年でもある。この事実は不変で表裏一体である。そのことを繁栄の渦中にある日本人としてどう考えるのか。あるいは忘却していることの認識。確信的に(特に極東アジアを)見ないことの告発。戦後からこの間には朝鮮特需もあっただろう。小松方正による力強く何度も繰り返されるナレーションは、国家の都合によって貧困にさせられる者への共感だ。民族がどうのという話ではない。それとは対照的に、イ・ユンボギの声は女性によってつけられている。それは親の愛情への憧憬と決別。怯えているが絶望ではない。これは戦争どころか戦後の混乱さえ知らない子供たち(私たち)への、戦争そして日本と朝鮮半島を考えるための参考映像のようだ。ましてや司馬史観が再紹介されていることでもあるし、有効性は失っていないだろう。民族と一国家の優位性に拘泥する者は、いつも恐怖のイメージとそれを克服するヒロイズムを喧伝するから注意が必要だ。全編スチール写真による構成。この後『忍者武芸帳』(67年)でも実写でもアニメでもない劇画そのものを撮影する試みをしている。『白昼の通り魔』(66年)『絞死刑』(68年)やいくらか軽い作品を経て、『儀式』(71年)で大島渚自身もいよいよ煮詰められることになる。

 NFCニューズレター第88号。300円。制作/印象社。デザイナー/表記なし。A4中綴じ横左開き表紙込み16ページ。特集1:映画監督 大島渚は巻頭4ページが当てられ平野共余子氏(映画研究者)によるアメリカにおける大島作品上映事情が紹介されていて興味深い。



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 武満作品でフェンダーローズ聴けるとは思わなかったんで、最初は驚きましたね。
タラちゃんの爛愁疋爐離レージ・セール瓠´ 悒ぅ鵐哀蹈螢▲后Ε丱好拭璽此
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.エンティン・タランティーノ監督作品『イングロリアス・バスターズ』

09年/アメリカ/152分/カラー 配給:東宝東和 原題:INGLOURIOUS BASTERDS 字幕翻訳:松浦美奈(字幕女王) 個人的タイトル『パリの一夜〜我が愛のフィルム』

予告編 


 ウィ・ラヴ・ムーヴィース!ユー・ラヴ・ムーヴィース?と唐突に問われたとしたら、私はいったいどう答えるでしょう。作品への関心だけがあって映画自体を愛するという趣味は私にはありません。そうとしか答えられません。これぞ映画の醍醐味だ、などと真顔で言われると思わず引いてしまう。私は人並みに年をとり、あんずジャムせんべいを食べながら紙芝居に熱中することは止めにしたつもりです。それよりも“普段は見えない何かをどんな風に語るのか”に心ときめいてしまう。そのために映画館に行くようなものです。美術館に行くようなものです。本屋に行くようなものです。レコード店に行くようなものなのです。現象よりむしろその背後にあるものを見たい。もちろん語り口の系譜などというものにも一切興味はありません。ですからフリックスマニアを自認する人の作品は、警戒してスルーパスしたい。そこには使い古された記号の繰り返ししかないのではないか。様式に一喜一憂する気分はもうすっかり減退しました(なんつってね)。おそらくチケット代と時間を無駄にしてしまいそうだ。そうタカを括ってしまうのは悪い傾向です。バカの壁です。いやいや、ですから一粒で二度おいしい方式を採用した『キル・ビル』二作で(なんとかハウスというのは観てない)、私個人のQT鑑賞記録、つまり愛と憎悪ゆえに殺人にとり憑かれた人たちを即物的に描く一連の映画の観賞は、一応の終了をするはずでした。そこに私が期待している、あるいは見出すものはないように思われたからです。しかし、今回性懲りもなくまた劇場に出向き鑑賞をしてしまったのは、ブラッド・ピットによる反ナチ映画などと耳にしてしまったからでした。ブラピ出演だからかなのかアメリカでの興行収入もQT史上最高なのだとか。しかもマイク・マイヤーズもちょっと出るらしい。私は『オースティン・パワーズ』シリーズに、メル・ブルックスの匂いを感じているのですが、リアルタイムで観た『メル・ブルックスの大脱走』(83年)(エルンスト・ルビッチ監督作品『生きるべきか死ぬべきか』のリメイク)みたいなものなのか?勝手にそう思ってしまいました。東野英心さんに“人がいいにもほどがあるってぇもんだ”とどやされそうです。

 結論から言うと後悔とまではいかないまでも疲労感を覚えざるを得なかった。911以降のアメリカの正義の報復、見つけられなかった大量破壊兵器という事実。ベトナムという苦い教訓を生かせない大国のもどかしさ。経済的状況も含めてアメリカでは虚しさが心を満たし、思考の再検討という機運の時期にあってさえこのような復讐譚が作られ続ける。マイケル・マン監督による『パブリック・エネミーズ』という作品も配給されたが、義賊による搾取資産の正当な奪還(汚い金は盗んでも汚いままのはずなんだが…)は、ラブストーリーを散りばめつつハリウッド流マーケティング戦略としてさぞかし楽しい時間を提供して顧客満足のことだろう。抜け目がない。世情をすくい取ることは大切だ。不況の時代、吉本のタレントが坂本九ちゃんの『明日があるさ』をリメイクするようなエゲツなさやね。しかし日本人の私たちは憶えておかなければならない。戦後GHQの通達により仇討ちもの、盲目的忠誠心の称揚、封建的反動、自殺賛美といったものは禁止されたのだった。事実の湾曲・捏造も含まれる。つまり日本は現実として勧善懲悪の対象だったということだ。あっち側の倫理として。安保も50年経ってすっかり“あっち側”の一員のつもりになっているが、それは無知や自己修正の為せる業だろう。娯楽を供する映画と言えばそれまでかもしれない。だが同盟国の受難を扱うこの映画を、強兵礼讃の国粋者には楽しめないはずなのだ。それにタランティーノが実際の人物を引っ張り出してまで作ったこの映画は、本質的にゲッベルスと同じことをやっていると言えないだろうか。映画原理主義者によるニセ映画(愛なき者による悪意的映画利用)への愛の報復は、私にはナチ級の邪なことのように思える。正義の手段が“やられたら数倍返し”というプリミティヴな願望のためのプロパガンダ娯楽作になってしまうというのは、映画の特性の皮肉だろう。映画内映画が映画そのものだったという罠。ブラピ一味の仕業はまさにプロパガンダ映画のナチのそれそのままということだ。己の愛情の認識を再検討すべきかもしれない。観客はその時、暴力の傍観者、漠然とした不安から或る国家なり民族を殲滅しようとする企みの賛同者なのだから皮肉この上ない。嫌なら1000円返してもらって帰った帰った!そりゃ厳罰化、実刑化を熱望する大衆にとっては正しい時流なのかもしれない。無理やり仕立てあげた私憤(リュック・ベッソンに煽られた?)のために映画をつくるのなら、それもまた同じ傲慢なのではないか。新しいハリウッドたろうとする中国で、ナチを別な何か(私たちのにおいがする!)に置き換えた映画が作られることもあるかもしれない。それも映画の醍醐味だとしてはたして楽しめるか?映画マニアののんきなお兄さんが目にしたカンヌの映画商人セレブリティー(愛なき者が映画を商売道具にしている)を、想像の世界で自由に抹殺しようとする時、ヒトラーの芸術家としてのコンプレックスが浮かび上がりそれにピッタンコ重なり合う。この作品から“反戦のハの字”を見つけ出すことは困難だ。自嘲しているようにも見えない。元々戦場には正義などというものは無いとでも言いたいのか?それに登場人物それぞれの欲望や葛藤も見えてこない。映画のルールに従う駒の様だ。ナチ後の人生にその悲惨さを炙り出したのはリリアーナ・カヴァーニ監督作品『愛の嵐』(73年)だった。911以降に世界と暴力を扱う製作者は、けしてイノセントではいられない。しかしタランティーノみたいなバイオレンス&ナンセンスに依拠した映画づくりが至上命題の人に現状認識を求めようとしても、それは無理なことなのかもしれない。逆に大人気ないと言われてしまうのがオチなのだろう。ただ私は、ジョゼッペ・トルナトーレ監督作品『ニュー・シネマ・パラダイス』(89年)で最後に上映されるフィルム、つまり迫害され切除された無数のシーンを繋ぎあわせて作られた名もなき短いフィルム。それをスクリーンに映写するシークエンスを思い出そう。表現の復権、それは映画への想いなのだと信じたい。権力による愛という行為への嫉妬=検閲・監視、そして自由を奪うすべての行為こそ抵抗すべきものだからだ。しかしその抵抗は殺傷器具によってはならない。この作品には真実の悪徳は見えてこない。可燃性のフィルムは武器になるという発想を、私は嫌悪するだろう。

 やっぱり触れないわけにはいかないと思うのですが、今回の公開に合わせたキャンペーンに私は色めき立ちました(オイオイ)。新聞広告には大文字でこう書かれています。“この映画面白くなければ全額返金します”と。こりゃうまいことやってタダで映画を観ることができるかもしれない〜。身体に染み付いているかのごとく即座にそう思うことは、私が最下層生活者に属していることを意味するでしょう。しかしよくよく広告を眺めると、その下にある比べ物にならないくらい小さい文字の注意書きには、最初の60分で判断してねとか、住所氏名年齢職業聞いちゃうゾとか、しかもそれは最初の四日間だけとなっているではないか。タラ兄ィ、なんとアスホールの小さいことを仰るのか、よしこうなったら是が非でも観にいって、数多の映画系ブログ同様に、自分のカタルシス解消のためだけに悪意を以って扱き下ろしてやろう。身体に染み付いているかのごとく即座にそう思うことは、私が最下…。それにしても私はタランティーノに教えてやりたかった。欽ちゃんのシネマジャック料金徴収方式を。観た分だけの自己申告料金支払いというすばらしい方法だ。ねぇ山本カントク。あっ、オムニバスじゃないからダメか。(ついつい『シネマジャンク』って言っちゃうんだよね)

 タランティーノ作品における女性の扱われ方は、旧来的性役割の否定のようです。母性を背景にした女性は描かれていないように思えます。あったとしても見せかけの記号のような気がします。と言ってウーマンリブでもフェミニズムでもジェンダーフリーといった風にも見えない。梶芽衣子の『修羅雪姫』(73年)を引用するように、単純にかっこよさの一点に尽きるようです。『キル・ビル』のユマ・サーマンさんもかっこいいのですが、今回のメラニー・ロランさんも泣くのはやめて復讐に燃えています。虐げられ続ける人ではありません。でも直情にすぎる気がします。もっと別のうまいやり方があったんじゃないかと。映画館を強制収容所に仕立て上げられると、実に不愉快な気持ちです。ところで最初の件に戻るんですが、日本で経済の要請によって作られている映画作品群は、女性の扱いに対して実に反動的に見えてきます。

 ところで『キル・ビル3』ってアナウンスがあるんですが何なんだオイ!アウトテイクで三度おいしいってことなのか?

 パンフレットは600円。印刷/成旺印刷。製本所/表記なし。デザイナー/山本廣臣。223×297中綴じ横左開き表紙込み44ページ。シナリオ採録なし。表紙4P(表2は写真、表3は『パブリック・エネミーズ』広告)、写真のみページ計5P、イントロダクション1P、ストーリー+写真1章につき1P計5P、登場人物+相関図1P、ブラッド・ピット・プロフィール1P、猿渡由紀(映画ジャーナリスト)テキスト1P、メラニー・ロラン:プロフィール+インタビュー1P、クリストフ・ヴァルツ:プロフィール+インタビュー(猿渡由紀による、以下同様)1P、イーライ・ロス:プロフィール+インタビュー1P、ダイアン・クルーガー:プロフィール+インタビュー1P、その他のキャスト:プロフィール(15名)2P、映画についてのトリビア4P、タランティーノ監督インタビュー(町山智浩による)1P、プロフィール1P、町山智浩(映画評論家・パイ投げ師・アメリカ芸能事情通)テキスト1P、瀬川裕司(ドイツ文学者)テキスト+写真2P、若林ゆりテキスト1P、プロダクションノート3P、美術と衣装担当者へのインタビュー(若林ゆりによる)1P、その他のスタッフプロフィール(8名)1P、セルジオ石熊(マカロニ研究家ただし非パスタ=ショーケン?)テキスト1P、サウンドトラック紹介1P、英文によるクレジット2P、クレジット+奥付+写真1P。評価:英文のクレジットまったく要らない。イーライとダイアン紹介もそれぞれ半ページでいいかなと。公式HPを見るとテキストはまずウェブ用に書かれパンフレット用にさらに手直ししているといった感じで内容はほとんど同じ。ということでページもリストラしてA4判にして500円以下が妥当か。



公開資料

  ばびょ〜ん。調子こいて冗漫なテキストを書いたら入りきらなくなったのら〜。
    というわけでこっちを見てね。→12月16日

 サウンドトラック盤は、ワーナーミュージックジャパンから絶賛発売中です。内容はいろんな映画からの泥棒となっております。14曲36分¥2580(税込)!高くね?DVDももう出てやがんの。ブルーレイもよろぴく。定期昇給分でフィギュアを大人買いもよし。

イングロリアス・バスターズの続き
 
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 テキストはこちらです。→12月17日
 
公開資料

チ ラシ2種(右は二つ折り)
 


新聞広告(L→Rいずれも夕刊、朝日11月6日全面、朝日11月12日、朝日11月20日・毎日・読売共通絵柄11月20日※20日は朝日のみ下方に東宝の音符 マーク入り、読売12月22日)    宣伝担当者は朝日購読者をターゲットにしているようです。
男たちの奇妙な友情  悒侫蹈好函潺縫ソン』
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  .蹈鵝Ε魯錙璽百篤頂酩福悒侫蹈好函潺縫ソン』

08年/アメリカ/122分/カラー 配給:東宝東和 原題: “FROST/NIXОN” 字幕翻訳:松岡葉子 個人的タイトル『ローファー×ローファー』

予告編 (THE WHOの『ババ・オライリィ』って本編に出てきたかな?)


 ウォーターゲート事件の頃って私はまだ小学生でしたし、何があったのかなんて理解できるはずもないのですが、アメリカのふたりのおじさん―ニクソンとキッシンジャーの顔はよくテレビで見かけていました。それから数年経ったある日、私は友達と映画を観に行きました。それはニクソン大統領が、前代未聞の任期途中の辞任をした74年に本国アメリカで公開されていたものの、その内容ゆえ(?)に日本には輸入されなかったのですが、一連のSF映画ブームを当て込んで思い出したように配給されたものです。つまりハーワード・ジームとマイケル・ベンベニステ監督による『フレッシュ・ゴードン』であります。前者が特撮を、後者がエロシーンを演出、ということなんですかね。なぜいつもは父親に同伴してもらう映画鑑賞を、自分のおこづかいから入場料を払わなければならないというリスクを犯してまで、今回は友達とだけで行ったのか?それは「EIGA NO TOMO」(エロ雑誌)でジョイパック・フィルムが洋ピン配給会社だと知っていたからです。なんかあるぞと。どーゆう小学生だ?案の定、タイトルからボカシが入りましたよね。そんなことはともかく、その映画に出てくる怪獣の顔を見て私はすぐに判りました。これはあの時見たアメリカのおじさんを真似しているんだな、と。あのニクソンとかいうチンポコ野郎なんだなと。ナイス解釈、ヒデキ、カ〜ンゲキッ!(なんやねん)



 ロン・ハワード監督作品…申し訳ありませんでした。『スプラッシュ』(84)しか観てませんでした。陳謝して発表発送に替えさせていただきます。『アポロ13』くらいは観ていても良さそうなのに残念です。ついでに言うと『天使と悪魔』も観る気ありません。重ね重ね申し訳ありません。で、肝心の本作なんですが、内容的には落ち目のイギリス人お笑い系司会者が、現状を打開するべく&アメリカ進出への足がかりとするべく、水門事件で引退状態にあったものの政界復帰を目論むニクソンとインタビューを熱烈慣行し、お互いギブ&テイクでハッピーにしたかったものの、アララ残念無念という感じなんでしょうか。一瞬の映像が大衆に訴えかける影響力というものなのでしょうか。でもなんか割り切れない…。いきなり始まってふたりの人物設計は最後まで浅はかなもので終わってしまう感じ。説明するまでもないよね、みたいな雰囲気。周りにいる連中も誰が何なのかよく判らない。まして飛行機内でナンパなんていうエピソードは要るのか、とか。大した役でもないケビン・ベーコンも、よく映画のオファーにOKしたよな、とか。映画撮って金に困っていたのか?そんなどーでもいいことを考えもしました。時間の扱いがふらついていて、77年の話なのに大統領在任中みたいで、このインタビューが辞任への引導を渡したかのような印象さえ持つ。三大ネットワークの態度も、政界を追われた人物の評価替え(政界復帰)を危惧していたとはいえ、あまりにも通り一遍のようだ。テレビの前の大衆の描写も大した事はない。このよそよそしい伝聞口調の演技は演劇由来なのか。もしや、メディアの寵児と元権力者の対決という東宝東和の売り方が間違っているのではないか。私はそう思うようになっていました。原題は×じゃないんですよねスラッシュだ。正反対の性格?そーかなぁ、私にはフロスト≒ニクソンに思えます。ロン・ハワード監督はここらで、演劇で一定評価のある、つまり安全パイな事実に沿った政治劇をフィルモグラフィーに入れることによって、単なるエンタメ系ディレクターからの脱出を図かろうと目論んでいるのでしょうか。のっぴきならないふたりの男の野望と挫折、その原動力はいったい何だ?女か金か。釈然としない。男と男の真剣勝負だなんてとてもじゃないが言えないんじゃないか。どう見ても共倒れの悲惨な戦いでしょ、これ。尾を引く後味の悪さでしょ。

 しかし、このニクソンって人は、身の回りにあまり注意を払わなかったようですね。この間もムービー・プラスで観逃したマイケル・ムーア監督の『シッコ』を観ていたら、医療保険に対する会話の盗聴テープが紹介されたりしてますよね。もしかして聴かれることを前提に話してる?谷崎潤一郎の『鍵』じゃねぇっつーの。ここでの会話の内容とは、「この制度は保険業界丸儲けの集金構造ですよ」「相互扶助なんていうものは微塵もないですよ」との側近の報告に対して、当初興味の無かったニクソンは「悪くない」と言う。(それにしても病気を認定しないことが保険医の評価につながるという現実は、成果主義なんて所詮運用次第でどうにでもなるという、コンプライアンスなんて名ばかりのモラルなき恐怖を表しているでしょう、アメリカという先行する生きた歴史の勉強ができるはずの日本はいったい何をやってるんだ?)ここら辺にニクソンの育ちが出るわけだ。もしかすると保険業界からの莫大な政治献金を期待していたのかもしれない。本編ではインタビューの途中の深夜に、ニクソンがフロストに電話をかけるという件があるでしょう。そこでニクソンは、フロストに「オックスフォード出身か」と質問するとフロストは、「ケンブリッジだ」と答える。どちらも名門大学と評判ですね。なんでそんなことを言うのか、どういう意味なのか。敵か味方か探っているのか?続いてニクソンは、「世の中にはどうにもならない支配層というものがあって、こいつらが人を小馬鹿にするんだ、お前もいじめられただろ」とかなんとか泣き言を言うわけですけど、いかにもたたき上げのニクソンらしい本音発言じゃないですかね。話の意図とはもしかするとここにあるのかな、なんて思いました。実際には無かった創作の出来事をわざわざ挿入したりするのは、何かメッセージがあるはずでしょう。アンタッチャブルな絶対権力層=エスタブリッシュメントとはどこにどれくらいいるのか?政治が変わっても不変である何か。ニクソンが見た地獄は、アメリカン・ドリームとは裏腹の、どうあがいても、どう所有しても無産階級から抜け出せない悲しさ(スタンリー・キューブック監督『バリー・リンドン』(75)、大滝詠一『びんぼう』(72))。現代ではもはや聖なる血統への系図の書き換えは成功しない。数多の欲望を整理するための学歴排他社会はやっぱり「悪くない」のか?そんな中、われ関せず粛々と世界全体をおまんまのタネにと目論むグーグルの商売は、あらゆる財産に対して一方的に“チェンジ”なのかもしれず注意が必要なのかもよ。

 それに気になったのは、ニクソンがフロストの靴に興味を持ち、側近に“あんなの女っぽくないか”なんて聞くシーンでした。紐の無い靴なんてなんかおかしいよと。この時代あたりからフェミニズム運動は、より私的な環境まで踏み込んで開放を訴え始めるわけで、それに伴って輝ける男の伝説といった類のストーリーが、成立しなくなりつつあるという歴史認識のようにも受け取れます。と言うか反作用としての男性自身の解放。このインタビューを行ったことで、このふたりのイカロスは社会的なリスクを負いながらも、家庭人として救われたのかもしれません。残された、人としての道。ニクソンがフロストに耳打ちした“あの女を嫁にしろ”とはどういうメッセージだったのでしょうか。

読書 パンフレットは600円。印刷/成旺印刷。製本所/表記なし。デザイナー/KK DESIGN。B5中綴じ縦左開き表紙込み32ページ。シナリオ採録なし。表紙4P(表2は写真、表3は『路上のソリスト』広告)、写真のみページ計6P、イントロダクション1P、ストーリー2P、マイケル・シーン・プロフィール&インタビュー1P、キャスト・プロフィール(4名)1P、(2名)1P、フランク・ランジェラ・プロフィール&インタビュー1P、佐藤友紀(フリーライター)テキスト2P、リチャード・ニクソン人物紹介1P、田久保忠衛(外交評論家)テキスト2P、町山智浩(アメリカ事情通映画評論家)テキスト2P、ロン・ハワード監督プロフィール&インタビュー1P、逢坂巌(東大出身立大助教)テキスト2P、ピーター・モーガン(原作脚本&製作総指揮)プロフィール&インタビュー1P、デビッド・フロスト・プロフィール&インタビュー1P、プロダクションノート2P、スタッフ(9名)プロフィール1P、クレジットと奥付1P。本パンフレットは左開き(横書き)だが、テキストの一部は縦書き(右から左進行)であり非常に読みづらい。外注組版か?コンテンツのウェブとの共用の弊害か? 公式サイトとの比較 ストーリーはほとんど同じテキスト、8名のキャスト・プロフィールはまったく同じテキスト、11名のスタッフ・プロフィールもほとんど同じテキスト、プロダクションノートは異なるテキスト、ピーター・モーガンとデビッド・フロストのインタビューは同じテキスト。無料で読めるのでパンフは400円程度でお願いします。



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新聞広告(L→R:朝日3月27日、読売5月1日)

              




 サントラ盤はジェネオンのランブリング・レコーズから発売です。14曲43分。担当はかつてハンス・ジンマーとして紹介されたこともあるハンス・ジマーさん。
恋愛は経済活動か 『8月の終わり、9月の初め』
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々澳康男監督作品『非行少女ヨーコ』
    →5月16日付

△△た森魚監督作品『僕は天使ぢゃないよ』
    →5月17日付

オリヴィエ・アサイヤス監督作品『8月の終わり、9月の初め』

98年/フランス/112分/カラー 配給:特殊上映 原題:FIN AOUT.DEBUT SEPTEMBRE 字幕翻訳:丸山垂穂 鑑賞状況:満席 個人的タイトル『告白的主体論序説』



私がオリヴィエ・アサイヤス監督作品を始めて観たのは、93年11月にシネ・ヴィヴァン六本木に於ける『パリ・セヴェイユ』(91)のことでした。その時の表記はアサヤスでしたよね。当時はオリヴィエ・アサイヤス作品というより、やはりシネ・ヴィヴァン六本木で89年にロードショーされたピエール・ブートロン監督作品『サンドイッチの年』(87)に主演したトマ・ラングマンの出演作という認識だったと思います。93年は春にも彼出演のジャック・ドワイヨン監督作品『愛されすぎて』(92)が公開されてますし。その後、今回字幕なしで上映される『イルマ・ヴェップ』(95)も確かシネセゾン渋谷でロードショーされましたけれどそれは観ませんでした。この時もまだアサヤス表記だったんです。両作とも配給は、今はなき日本ヘラルドで幸先の良い日本紹介ではありました。私の中でオリヴィエ・アサイヤス監督が決定的な存在になるのは、98年5月に開催された「アニエスb.は映画が大好き」で上映された『冷たい水』(94)からのことです。有楽町朝日ホールがスノッブで一杯になった(個人的感想です…)、ゴダール監督作品『はなればなれに』より重要だったと言い切ることができます。同年シネセゾンは解散し、翌年末にシネ・ヴィヴァン六本木は再開発のために建物ごと無くなりますから、エリック・ロメール監督のように常連になることはありませんでした。アサイヤス監督の作風から言って、それは受け皿が無くなる以上、作品の日本配給公開が非常に困難になることを意味しているでしょう。時代が変っていなければ、飯田橋駅から何もない通りを歩いて、蒸し暑さの中あまり現像が良いとは言えないフィルムを観ることもなかったのかもしれません。さて、この『8月の終わり、9月の始め』ですが、これは確かいつかのカイエ週間で上映されたんだと思いましたが忘れました。その時は果たせず10年近く鑑賞の機会を待っていたことになります。自然と期待は高まります。

 劇中、ヨーゼフ・ボイスの絵画を、作家エイドリアンの死後若い恋人に遺産として譲るという件がある。それはこの映画の重要なヒントのようだ。私の中には、イヴ・クラインとヨーゼフ・ボイス、このふたりのアーティストは、いつも心のどこかに引っかかっている。簡単に言うとマルセル・デュシャンが種を蒔いた、芸術に於ける価値そのものの価値を問う姿勢があったから、あるいはあらゆる事物・事象が貨幣価値に還元される時生じる疎外感へのまなざしがあるから。要するに主体のありかはどこかということだ。逆転させると権力の真実の民主化を見据えている。今はまだ自由を謳歌しているようで実は手のひらで遊ばれている“おいしい生活”。ヨーゼフ・ボイスの芸術は取っつきにくいが、それは彼の意思表明であるとともに言語そのものでもあるからだ。主体的であることを誰にも引き渡さないということなのだろう。特にヨーゼフ・ボイスは、政治的イデオロギーより経済セオリーの方がより強力で、欲望に忠実だから世界を覆いつくす脅威であることを理解していたのだと思える。まして宗教はもはや形骸化して諍いの火種だ。誰も逃れられないその中で“わたし”はどう生きるのか?という問い。世界は総客体であったという世界同時不況は判っていた事なのだ。そして“影響”と名付けられた病の蔓延は暗示的だ。政治や経済への関心は、それが個人への抑圧装置だからに他ならない。抑圧装置は画一的であることを強要する。いや強要するのではない、慣れさせるのだ。麻薬のように疲弊させるのだ。この映画の中では、経済にかかわる出来事が二つ出てくる。ひとつはガブリエルとジェニーが恋愛(結婚生活?)を解消するために愛の巣であったアパルトマン を他人に売却し、借金返済の当てにしようとしているまさに“金の切れ目が縁の切れ目”といったシークエンス、もうひとつはガブリエルの友人であるエイドリアン が、旧作小説が売れないとガブリエルに嘆いているシークエンスだ。ともに冒頭で提示されている。これはわたしたちが日常、他人の言語で生活していることの現状確認だった。作家エイドリアンの創作とは、そこからの脱出の思索だったのかもしれない。しかし洗脳された経済原理主義者にその言葉は届かない。ひとつの事例を引いてみたい。村上隆への不快感は、あらかじめ跪いた上で、宮廷絵師の真似事をやっていたことにある。顧客は金持ちの田舎紳士、あるいはブランドという名の奇形コレクター。世界戦略とは、自分の客体さの認知運動だ。要するに王様に褒められたい家来の自己確認。日本人は村上のアートが剽窃であることが判っていて黙認した。同時不況後の彼の発言は、あきれるほど他人事で自己肯定甚だしいが、客体としてその場にいた“主犯”なのだと思える。おそらくこの茶番は、忘れられるか徒花という末席しか与えられないだろう。ボイスが生きていたらこの馬鹿騒ぎをどう見たのか。案外面白がったのかもしれない。当然、それはニッポンビジネスマンへの嘲笑の系譜として。

 個人や法人が投資した資金は、リスク回避の名目で分散される、それは同時にその資金に付帯していたはずの欲望を粉砕して本質を判らなくする。マネー・ロンダリングとはそういった類のものだろう。これを踏まえて日常生活を捉えてみるとどうなるのか。当初のガブリエルは、恋愛において客体であった。それは肉体関係(共通言語)から始まったとも言えそうだ。仕事は編集者だが、心の中では実作を行いたいとは思っている。でもそれができないのは、体質が客体だからであって実作は主体的でなくては作り出せない。文字に触れながらも忸怩たる想いだけが募る。出来たように見えるものは、寄せ集め(編集)られた剽窃であるだろう。客体は寄せ集まって無為なおしゃべりをするしかない。アパルトマンの売却は、ふたりの愛の歴史の廃棄を目論んでいるのだが、うまくすすまない。会うとまた愛し合ってしまう。そこに人間性(主体)というものが浮かび上がってくる。一方人間は、付帯している付加価値に過剰な評価を与えると、恋愛がインフレを起こし実態が見えなくなる。ストーリーは語れても構造は語れなくなる。しかもストーリーは使い古されたものだから無意味この上ない。『余命1ヵ月の花嫁』とは、恋愛関係に於けるインフレーションを観せられているとも言える。ここでの付加価値は一方の死であることは言うまでもない。実に魅惑的で麻薬的だ。カウントダウン・トゥ・エクスタシーだ(何のこっちゃ)。しかし男と女の人間関係の何が判ったというのか。カルマは見えない。でも商品としての映画は顧客満足的だ。これに対してガブリエルの日常は、ふたりの女の間でデフレ基調が続いていた。実作を志して編集者を辞するものの、取って代わった場所は政治家の文章代筆に過ぎない。そんなある日、ガブリエルは写真でしか知らない亡きエイドリアンの若い恋人を発見する。それは彼女が自ら選択した人生の中で、生き生きと輝いている風景だった。反動的な態度は微塵もない。過去への未練もない。その時、ガブリエルは主体として生きることのすばらしさを認知するのだ。ヒエラルキーに拠らない何かを掴むのだ。このように世の逆相を捉えるところに、オリヴィエ・アサイヤスという表現者の真骨頂があり、私の心を掴んで離さない。『パリ・セヴェイユ』にも父親の若い愛人という設定がある。世代間の時間の継承とは、アサイヤスにとってどれほど重要なことなのだろう。

 今回のアサイヤス特集のために作られた三つ折チラシを確認したい。アサイヤスの著書の一部が引用されている。それはそのままボイスが言った“社会彫刻”という概念を説明しているように思えてならない。ボイスは生きていること自体がアートであるという。誰もが何らかの形で社会参加を目指す世界。それが権力集中というリスクから回避するための市民の唯一の手段なのだろうか。

 ガブリエル役のマチュー・アマルリックとジェニー役のジャンヌ・バリバールのふたりは、どうしてもアルノー・デプレシャン作品を思い出してしまう。アンヌ役のヴィルジニー・ルドワイヤンはやはりシネ・ヴィヴァン六本木でロードショーされた、ブノワ・ジャコ監督作品『シングル・ガール』(95)の孤独な少女が印象的だった。そこでのルドワイヤンの役は、ホテルのルームサービスの少女だが、ホテルのテレビで放送されていたのは『ハクション大魔王』だったな、なんてくだらないことを思い出した。撮影はアサイヤス組と呼んでいいドニ・ルノワールさん。都合描写を一切排除したリュック・バルニエの編集も刺激的だった。

公開資料

チラシ



ミスター・モンシェリーを探して  悒屮蹇璽ン・イングリッシュ』
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.哨ぁΕサヴェテス監督作品『ブロークン・イングリッシュ』

07年/アメリカ/98分/カラー 配給:ファントム・フィルム 原題: BROKEN ENGLISH 字幕翻訳:松浦美奈(だから絶対字幕の新女王だって) 個人的タイトル『愛しのカタコト英語』

予告編


【最初に書いたバージョン】

  日本においてジョン・カサヴェテス監督とその作品に対する評価が確立されたのは、『ラヴ・ストリームス』(シネセゾン渋谷)がシネセゾンによって配給されて1年と数ヶ月後に迎える彼の死後、約一年かけて作られたまだ扶桑社から発売されていた書籍扱い定期刊行誌Switchの別冊『映画監督ジョン・カサヴェテス監督特集』と連動したかのようなシネマトリックス配給『オープニング・ナイト』(ル・シネマ)の上映だったんじゃないでしょうか。特にSwitchのテキストは、ことさらに感傷的で喪失感ともなう肌触りであり、この人物を神格化させるには充分でした。そのまた2年後、シネセゾンと東北新社によってそれまで未配給だった3本を含む『カサヴェテス・コレクション』(シネセゾン渋谷などセゾン系3館)と題した特集上映が組まれてそれは決定的となるわけでした。今では“インディペンデント映画の父”ということになっています。おそらくそれは海外での評価替えの追認という性格が強いものなんでしょう。息子のニックはピーター・ボクダノビッチ監督作品『マスク』で、主役の青年を演じたあと監督の道を歩み始め、堅実な作品を製作し続ける中堅になっています。そして今度はジョンの次女となるゾイ・カサヴェテスの登場と相成るわけだ(長女も作品を発表しているらしいが…)。“ゾイ”と聞いて思い起こされるのはマーティン・スコセッシ、ウディ・アレンそしてフランシス・コッポラという三人の監督による89年のオムニバス映画『ニューヨーク・ストーリー』のコッポラ篇「ゾイのいない生活」です。この作品には娘のソフィア・コッポラも参加しているのですが、私はこの作品が彼女の最初期の演出作品なんじゃないかと勝手に思っています。もしかすると“パパの名義なんだけどお前やってみなさい”なんて言われているかもしれません。『ヴァージン・スーサイズ』にすんなり繋がる感じなんです。なぜこんなことを言ったのか、それは今回の日本配給上映に際してゾイ・カサヴェテス監督の売り出し文句が“第2のソフィア・コッポラ”となっているからです。パパ・コッポラは世界的に有名で実績も残している人ですが、パパ・カサヴェテスは知る人ぞ知る、日本だってちょっと前までニューヨークの路上でメジャーの力を借りずに映画を、しかも今まで取り上げられなかったパーソナルな問題を扱った映画(『アメリカの影』)を作った俳優の人という程度の認知が、しかも一部の人たちだけのものだったはずなんでしょうから、ここには雲泥の差があるという認識だけは持っていたほうが良いのではないか、という事です。つまりゾイ・カサヴェテス監督がフィルモグラフィーを作り上げていくには“第1の人”より相当な困難が待っていそうだということです。ローマン・コッポラさんでさえ1本撮った後はむしろミュージック・クリップやウェス・アンダーソン監督のセカンド・ユニットをやっているくらいですから大変です。今回はご祝儀ということでしょうか、親友であるソフィアさんの口利きでしょうか、配給のファントム・フィルムが製作にも参加しているようです。冒頭からジョン・カサヴェテス監督をきっかけに話を始めましたが、本当のことを言うと父親が誰であろうと親友が誰であろうと、一本の映画を鑑賞する者にとってそんな情報は何の保障になるはずもない。それをよりにもよって最初の日本公開作品に当たって“第2のソフィア・コッポラ”なんてイロをつけるような言い方って随分じゃないかと憤っています。売れればそれで良いのか?本質より雰囲気優先なのか?ガーリーってナンなんだ。女はそんなに簡単にカテゴライズできるのか。“アラフォー”などと言われながら水子供養ならぬ“自己供養”することで状況を正当化しようとする時節到来なのか。だけどそれは世間に蔓延る“スタンダード”なんて根拠の無いものであって、背後には必ず商売のニオイがするものでしょう。あわわ、また横道に逸れてしまいました。ゾイさんはソフィアさんのエピゴーネンなんかじゃないでしょう。先入観を押し付けるやり方は止めて欲しい。今、考えてみればジョン・カサヴェテス監督の埋もれた作品との出会いだって、前述の通りけして幸福なものではありませんでした。それは映画鑑賞自体が儀式化されて肝心の作品は蔑ろにされるリスクを伴っているということです。映画を観ることはお祭りなんかじゃない。この際監督本人でさえどうでもいい、しかし作品には敬意を払って欲しいと考えます。なおタイトルはマリアンヌ・フェイスフル79年のアイランド盤から。

【無関係と言いながら父親の話題からテキストを始める矛盾を意識してなるべく作品に特化しようと試みたものの失敗し放棄したバージョン】
 30年前のリチャード・ブルックス監督作品『ミスター・グッドバーを探して』や翌年のマーヴィン・チョムスキー監督作品『さよならミス・ワイコフ』などに描かれた女性といったものはどのようなものだったのでしょうか。あの頃に比べれば随分と女性の性生活も、安全に気軽に社会的に受け入れられるものになってきたということなんでしょうか。ここにはシリアスな切羽詰った焦りのようなものは見受けられません。むしろコメディ調の、あるいは自虐的な感じすらします。男性の悪意は女性のそれと相殺されると予め認識している印象さえ持ちます。いや、これが現代の切羽の詰り方というものなのかもしれません。笑いながら泣く…。でも自己責任と言えば聞こえは良いのかもしれませんが、この若い女性に与えられた自由が、実は“北風と太陽”を応用した男性たちの“女体ゲット陽動作戦”だったとしたらどうしましょうか?狼には気をつけてちょぶだい。そんなことはともかく、ゾイさんはパンフレットのインタビュー で父親の『オープニング・ナイト』(やっぱり30年前)が好きだと語っていますが、そこには若いとは言われなくなった女性の、孤独に埋もれていきそうな時間と希望が刻まれていました。演じる女性が、蔑ろにしてきた演技ではない実人生へのまなざし、気づかなかった愛といったものがあったように思います。冒頭に友人のおのろけパーティ・シーンを持ってきて、しかもピーター・ボクダノビッチ監督が出演しているところをみれば、充分にその映画を意識して引き継ごうとしているだろうことは判ります。パパもママも大好きなんだな。それに恋に落ちるフランス青年は、『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモントさんを思い起こさせます。女の立場でストーリーを成立させる魂胆でしょうか。思い起こさせると言えばやり逃げする三流ロック勘違い野郎も、モヒカンな感じが『タクシー・ドライバー』(76)のロバート・デニーロさんそっくりですね。『タクシー・ドライバー』って、シビル・シェパード(ボクダノビッチ監督作品『ラスト・ショー』(71)のヒロイン)に注目すると、選挙を手伝っているハイソで偽善的な上昇志向女が、ひとりのイエロー・キャブ・ドライバーを通じて、現実社会を見ることの個人的限界(例えばジョディ・フォスターの売春婦には絶対に出会えない)を知るといったストーリー、社会階層の発見でした。この映画の主人公は、社会の何と対峙しているでしょう。それは冒頭のホテル応対シーンで描かれているかもしれません。  【中絶

 撮影はジョン・ピロッツィさん。ミュージックビデオなどで活躍されている方のようです。ひとつ気になったのは特にロケ撮影で顕著な色彩の滲み・ブレでした。チラシでもよく判ると思います。撮影がフィルムなのかデジタルビデオなのかははっきりしません。意図的に施されたものなのでしょうか。確かに夢の中という感じではありますが。

パンフレットは700円。GARDEN CINEMA EXPRESS・通し番号なし/印刷・多田印刷/製本所・記載なし/デザイン・大寿美デザイン/編集・記載なし。A4中綴じ左開き(横組み)表紙込み24P。表紙4P(表2は写真、表3はクレジット)、写真9P、イントロダクション1P、ストーリー1P、キャスト・プロフィール7名2P、スタッフ・プロフィール5名1P、プロダクション・ノート2P、林文浩(雑誌編集長)テキスト1P、立田敦子(映画ライター)テキスト1P、ゾイ・カサヴェテスとジーナ・ローランズのトーク1P、広告(VIS)1P。細かいようですが600円でお願いします。




公開資料

チラシ



新聞広告
     



 ざんねーん、サントラの国内盤は発売されていないようです。でもこのジャケットいい感じ。
女の愛情、男の捏造  悒船Д鵐献螢鵐亜
JUGEMテーマ:映画

.リント・イーストウッド監督作品『チェンジリング』


08年/アメリカ/142分/カラー 配給:東宝東和 原題: CHANGELING 字幕翻訳:松浦美奈(もはや字幕の新女王やね) 鑑賞状況:6人 個人的タイトル『ジ・アグリー・アンダーニース』

予告編


06年の『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』に続くクリント・イーストウッド監督の新公開作です。でも次作『グラン・トリノ』も既に完成しているようです。すごいな、老いて益々精力的ですね。私は件の2本は見逃してしまいました。ですから『ミリオンダラー・ベイビー』以来ということになります。主演は09年3月現在ブラピのパートナーであるアンジェリーナ・ジョリーさん。出演作は『スカイキャプテン』だけしか観ていないと思うんですが、顔の造作からするとどちらかというと苦手なタイプです。余計なお世話ですがノーメイクの方が良いのではないかと、特に厚いくちびる(ここまでくると露悪的な…)が際立つ濃い口紅はどうかなと。でもここでは当時の職業婦人をみごとに演じているようです。突然ひとり息子が自宅から失踪、しばらくしてやっと戻ってきたのは他人だった。サスペンスなんでしょうか?

 常々思っているので別のブログでも書いたことなのですが、警察や自衛隊などといった存在は(表向きは)治安維持目的の暴力装置であって道徳などではない、これが私の基本的な考え方です。そこに正義の判断を求めようとしても“民事不介入”などとにべもなく言われたりします。でも私たちには彼らが考える正義を要求したりします。不透明で時に日常と乖離している正義。これはよく言われるとおり、疾病治癒あるいは進行遅延・鎮痛目的に使用される毒を薬と呼ぶこととまったく同じでしょう。だから副作用もある。あるいはハサミも凶器になるのだということです。この映画は母親の息子への愛というカタチを借りてあってはならない副作用を扱った映画のように思われます。それにアメリカに於ける自立女性の戦前の困難状況を扱ってもいるように思います。夫婦が当事者だった場合このような精神病院への強制収容などということにはなっていなかったでしょう。つまり女性の自立への妬み嫉みがあったこと、十分に男尊女卑の時代であったことの確認をしているようです。この映画でもジョリーさん同様まともなのに精神病院へ強制収用された女性(エイミー・ライアンさん)との交流が出てきます。患者はほとんど女性でした。精神病院が実態として警察に不服従な女性への、裁判を経なくてもできる懲罰の場所となっている、私刑の場所となっている。拷問は治療と名付けられているのです。この絶望とどう対峙すれば良いと言うのでしょうか。イーストウッド監督はアメリカの負の歴史・精神史を語っているのでしょうか。

 この映画のことをボンヤリ考えている時、昔このような警察に対する戦慄を覚えた事件があったことを思い出しました。88年に堺市であったいわゆる「警察官ネコババ事件」です。普通の主婦が家業の店先で拾った現金を善意で交番に届けたものの、受け取った巡査がネコババを働き逆にその主婦(しかも身重だった)を署内総出で犯人にでっち上げていったという身の毛もよだつ事件でした。ネコババを隠蔽しようとした訳です。逮捕までしようとしましたが、かかりつけの産科医の猛反対で実現しなかった。これは事件解決前からワイドショーなどでも大いに取り上げられました。嘘つきは警察の始まりだと思いましたよね。そして恐ろしくなった。権力が暴走し全てを否定される恐怖。現在でも警察の不祥事は後を絶ちません。なぜこのような事例を一括管理分析して警察全体として共有しないのか。縦割りだからか?各地方自治体の警察で同じことが同じだけ繰り返されていくようです。

 この映画を語るとき絶対に落としてはならないのが、ジョン・マルコヴィッチさん演ずる牧師でしょう。ロス市警の堕落を批判し一貫してジョリーさんを擁護していますが、その人の行動やその善悪を云々したいのではなく、彼が布教のために有しているラジオ局というメディアが、たとえ小さくとも警察の不祥事、いやマフィア化・権力に胡坐をかいた悪行を世間に告発し浄化運動の大きなうねりを作り出したということです。ジョリーさんの悲劇よりむしろこちらこそがイーストウッド監督が言いたかったことなのではないか、と思うこともあります。次作『グラン・トリノ』に想いを馳せます。権力には対抗するチカラを持てと、毅然とした態度をとれと。でもこれも使い方次第なんですよね。ところでイーストウッド監督は死刑制度にはどういう立場なんでしょうか。

 出演者の演技はとてもすばらしいと思います。ロス市警の警部役のジェフリー・ドノヴァンさん、シリアル・キラー役のジェイソン・バトラー・ハーナーさんは今後のより一層のご活躍が期待されます。また連続殺人の手助けをし、事件解決のきっかけになった従兄弟の少年役エディ・オルダーソン君も賞賛したいと思います。

 例えば今、このような警察批判劇映画を日本で作れるのでしょうか。企業ありきの委員会映画では難しい気がします。4年前に完成されていた高橋玄監督の『ポチの告白』はやっと今年ロードショー公開されました。あるいは『金環食』みたいな汚職ものはどうでしょうか、『小説吉田学校』みたいな映画は成立するでしょうか。これだったらエンタテインメントとして成り立つかもしれません。でもなんだかんだとエグイ話はオミットされそうです。その筋のウラ通りも当然オミットされるでしょう。あくまでも政治群像劇として。誰よりもハリウッドに憧れていたはずの、でも無欲のような滝田洋二郎監督に先を越されてしまった原田眞人監督あたりがやりそうな気がします。ガンガレ!なんてったって『金融腐食列島・呪縛』だって忠臣蔵なんだから判りやすいよね(観てないのによく言うよ…)。とりあえず『ポリスアカデミー』レベルから始められないでしょうか。邦画が熱い!なんて言われてますけど、日本ではもはや児童向けアニメーションと人命を担保にした男と女の戯言しか作られないのでしょうか。21世紀の世界の片隅で“愛してるのに死にたくねぇ〜よぉ”ってナンなんだよ。そろそろ起きろよ、と上から目線。

  パンフレットは600円。印刷・成旺印刷/製本所記載なし/デザイン・KK DESIGN/編集・東宝ステラ。A4中綴じ左開き(横組み)表紙込み32P。表紙4P(表2は写真、表3は『フロスト×ニクソン』広告)、写真9P、イントロダクション1P、ストーリー2P、吉野朔実(漫画家)テキスト1P、黒沢清(映画監督)テキスト“イーストウッドは小津に近づいてる2P、アンジェリーナ・ジョリーのインタビュー1P、キャスト・プロフィール(アンジェリーナ・ジョリー1P・6名分1P)2P、クリント・イーストウッドのインタビュー1P、スタッフ・プロフィール12名分2P、ウォルター・コリンズ失踪事件紹介1P、プロダクション・ノート3P、芝山幹郎(映画評論家)テキスト2P、クレジットと奥付1P。イントロダクション、ストーリー、キャスト&スタッフ・プロフィール、プロダクション・ノートは公式サイトと同文、無料で読むことができる。ほとんどのテキストが流用となっていますので300円でお願いします。




公開資料

チラシ





 イーストウッド監督自身によるサントラ盤は16トラック入り2625円。ランブリング・レコーズより発売です。右の輸入盤の方がジャケットが素敵ですね。