妥協せざる人々

映画館に観にいった映画についての感想文。

ドグマ・不純の誓い
―于颪辰娠撚茲亡脅佞靴燭
⊂暖饉圓箸靴討領場を明確にするぞ
1撚茣嫋泙竜_颪浪真佑砲睚薪であれ
け撚茲呂燭世修譴世韻農斬なんて持ち込むな
ケ撚茲乏壁佞韻鷲要ない
ι埔鰺な文章で失笑を買え
他人の価値観からの脱却を図れ
╋欧覿欧訖様佑竜せちを逆撫でてみろ
ナンバー・ワンではなく、ロンリー・ワンを目指せ(泣)
“映画好き”を自称しつつそれを貶める人間に憧れろ(号泣)


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お詫び
ただいま、個人的な理由により映画鑑賞が困難となっております。テレビ放送、あるいはビデオグラムなどでは鑑賞しておりますが、映画フィルムと劇場スクリーンがあってはじめて映画鑑賞が完成するという考えの下、当ブログのテキストは、劇場での鑑賞作品の感想に拘らせていただきたいかと存じます。暫しお待ちいただければ幸いです。
お知らせ
おかげ様をもちまして“未公開または書きかけ”のテキストが100を越えました。観たこと自体忘れている作品も少なくありません…。こんな僕を許してください。
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フランスの影 そして なしくずしの死  慘人たちの失われた革命』
07年2月18日(日)分

.侫リップ・ガレル監督作品『恋人たちの失われた革命』

05年 フランス映画。黒白。スタンダード。182分。配給 ビターズ・エンド。原題 LES AMANT REGULIERS 鑑賞状況 座席190席中50席程度。個人的タイトル『ほろ苦い結末』。



撃沈 正月明けすぐから東京都写真美術館で上映が始まったこの作品も、ついに本日が千秋楽。はたして観客は多いかもしれないと思ったが、心配は徒労に終わった。3万人が参加するという東京マラソンの影響だろうか。ところでロビーで旧作品のポスターなども販売していたようだが、本来ならここでレトロスペクティヴ上映みたいなものをすべきだったのだと思う。吉田喜重監督の『鏡の女たち』の上映の時もそう思ったものだった。美術館側の立場はホールの賃貸主という感じなのかもしれないが、新作を契機としてひとつの企画展としてアレンジ(キュレート)できる人材が必要なのではないかと思われる。名画座での旧作連続上映だけでなく、美術館の、それも映像に特化した美術館での上映なのだから、学術的なアプローチをもった企画があっても良いはずだ。映画研究はよくわからない学閥の手慰みではなく、もっと表沙汰になって鍛えられるべきなんじゃないだろうか。雰囲気といったものに映画鑑賞を委ねないために。

無料 このアヘンで朦朧とした状態の中にいるかのような映画を、ガレル監督はなぜ作ったのだろう、と考える。パンフレット掲載のインタヴューでは、黒白映画はテレビに売れないのでプロデューサーが資金を捻出してくれないといったような発言をしている。それはガレル監督の映画制作上の腹のくくり方でもあるだろう。要するに大衆受けするドラマツルギーが量産されることに対するささやかなる戦い。判り易さの、いや一方的な価値へ落とし込まれることへの抵抗(=兵役拒否)。好漢でも悪漢でもなかった者たち(それはドラマに強く憧れながらそれを作り出せなかった者たち)のレクイエムがあっても良いはずだ。動かそうとしていた場所で女と男が出会い、すぐその運動の無力さに気付くという“良心的聡明さゆえに”すれ違っていく青春の不様さが語られても良いはずだ。祖父がした手品が意味を持たないように、そこには曖昧な世代間の断絶があったはずだ。あるいは人生の大半は意味の無いものだとしたら…そもそも意味とは何なのか。青臭いと一笑に付されることにこだわり続けよう。こういうものを掬い上げて映画に仕立てようということは、この即席の時代にあって野心的以外の何ものでもないだろう。それは多層的な芸術的作業だと思える。以前から、そしてこれからもこういう問題は変形させながら取り上げられるのだろう。ここには時代の熱に浮かされ共同幻想の憤りに絡めとられていった挫折がある。しかしそれは同時に時代を越えた物語でもあるのだ。一方通行に私たちを導いていこうという悪意に終わりは、ない。だから僕にはこの3時間はむしろあっという間のものでもあった。だって僕はマラソンをしないで映画を観ながら、マラソンのように時代が雪崩れ込むかつての風景を眺めているのだから。2007年の新宿西口は立ち止まっても逮捕されない平和に満ち溢れている。もっともそんなことしていると、後ろから来る人たちに踏みつけられるだろうけど…。僕は2005年10月15日付のジャン=リュック・ゴダール監督作品『アワー・ミュージック』のテキストの中でこう書いている。《考えてみればエンタテインメントとしての映画産業という観点からすると、ゴダールの映画はある種の悪質さを内包しているとも言えるだろう。前述したゴダールの様式をどう受け入れるかで評価は大きく別れそうではある。だが、それは価値観の強制への抵抗なのだと考えたい。そして僕はそのことを好ましく考えている。『アワー・ミュージック』とは複数の異なったリズムの共存、抑圧からの開放のための暴力依存という悲喜劇的円環、こういったことのための問題提起の寓話と考えたい。しかし、この自分自身として登場するゴダールの無力さはどうだろう。僕はもう“ベトナムから遠い場所で僕はいったい何をやってんだか”などという腑抜けたおぼっちゃん映像で感動できるほどお人好しではない。》今、考え直してみるとゴダール監督は戦略的に停滞したのだと思う。あくまでもここからよそを眺めながら、他者たらんとしたのだろう。現実の紛争だけではなくイデオロギーにも、ストーリーテリングにも。ガレル監督はそれを踏まえつつ、この作品で誰もが心を奪われそうになる、人生のダイナミズム(=勝者への物語)といったものから背をそむけているのだと思える。僕は不思議に思うのだが、他人に不寛容な「私だけの物語」が“みんななかよく”というスローガンの全体主義を準備するための恐怖だとは思わないのだろうか?

バナナ もう一度ガレル監督の発言に戻ってみたい。ともすると非商業的だと揶揄されそうな作品である。ただ、ネームバリューをありがたがるという国民気質を持つ日本では、それなりの利潤を上げるのではないだろうか。二次利用もあるだろう。ガレル監督はすでに孤高のポストヌーヴェルヴァーグ作家として定着しているらしいし、製作者にとってもありがたい国ではある。これが仮にフィリップ・ガレル監督作品でなかったら、果たして輸入されていただろうか。小津安二郎をリスペクトして日本の財布の紐をゆるめたヴィム・ヴェンダースさんおげんこですか?しかし、不安もある。今年のフランス映画祭がすっかり、各配給会社の合同有料試写会と化してしまったことである。あらかじめ日本公開が決まっているとはどういうことなのか?それはエンタテインメントとして、配給者の予想興収マーケティングをクリアしたものが選択されているということだろうか。そしてそれは私たちの表現の多様性の発見、深堀の機会を奪っているのかもしれない、などと不安な気分になってしまうのだ。映画祭というものはもっと鑑賞者に委ねられても良いんじゃないだろうか。毎年映画祭を行うようになったイタリアはともかく、ドイツ、スペイン、その他欧州諸国の映画の輸入状況を見るとそう思わざるを得ない。もう一度、パシフィコ横浜から考え直して貰いたい。在日フランス人によるフランス人のためのパーティーだというなら話は別だが。

STOP! ウィリアム・ルプシャンスキーによる映像は美しい。この黒の濃さはどうだろう。黒と言うよりそれは墨であって影、闇だっただろう。闇とはなんなのだろうか。どんなに努力しても具象的な風景は何も無く、ただ白が黒に混じり、黒が白の中に解けていくことしか思い出せないのだ。いや、ひとつだけ印象的なシーンがあった。デモの時に(何かを、だがおそらく偶然見かけたリリーを)眺めているフランソワの顔、フランソワと初めて言葉を交わした時のリリーの顔。それぞれに一瞬黒味が入るのだが、“見る”が“見つめる”に変化した瞬間だったような気がする。ふたりの間に、愛が誕生したのだろうか。

曇り パンフレットは600円。A5左綴じ中綴じ表紙込み28ページ。茶色の色上である表紙には何も印刷されておらず、ピンクのコート紙オビに筆記体で原題が。印刷は文化印刷。俳優の西島秀俊さんと作家・ミュージシャンの中原昌也氏の対談収録。

むかっ 特に明るい場面において、何度か字幕の判読ができないことがあったことを指摘しておきたい。かすれて、はっきりと焼付けが失敗していると思われる部分もある。後々、DVDになるのであろうが、商品としては修正が必要だろう

⊃江敏男監督作品『ああ女難』
    →2月20日付



失恋 大きな時代のうねりの中で、女と男は出会い、情熱的な時間の後それは突然破産する。男は朽ち果て女は生き抜いていくのだ。愛は魂の中で永遠の素振りをするだろう。
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