妥協せざる人々

映画館に観にいった映画についての感想文。

ドグマ・不純の誓い
―于颪辰娠撚茲亡脅佞靴燭
⊂暖饉圓箸靴討領場を明確にするぞ
1撚茣嫋泙竜_颪浪真佑砲睚薪であれ
け撚茲呂燭世修譴世韻農斬なんて持ち込むな
ケ撚茲乏壁佞韻鷲要ない
ι埔鰺な文章で失笑を買え
他人の価値観からの脱却を図れ
╋欧覿欧訖様佑竜せちを逆撫でてみろ
ナンバー・ワンではなく、ロンリー・ワンを目指せ(泣)
“映画好き”を自称しつつそれを貶める人間に憧れろ(号泣)


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お詫び
ただいま、個人的な理由により映画鑑賞が困難となっております。テレビ放送、あるいはビデオグラムなどでは鑑賞しておりますが、映画フィルムと劇場スクリーンがあってはじめて映画鑑賞が完成するという考えの下、当ブログのテキストは、劇場での鑑賞作品の感想に拘らせていただきたいかと存じます。暫しお待ちいただければ幸いです。
お知らせ
おかげ様をもちまして“未公開または書きかけ”のテキストが100を越えました。観たこと自体忘れている作品も少なくありません…。こんな僕を許してください。
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冬の〜オリヴェイラ〜男ってヤツはぁ  慳覺蕁
JUGEMテーマ:映画

08年1月28日(月)分

.泪離┘襦Ε鼻Εリヴェイラ監督作品『夜顔』

06年 フランス・ポルトガル。70分。カラー。ヴィスタ。配給 アルシネテラン 原題 BELLE TOUJOURS 字幕翻訳 斉藤敦子 鑑賞状況 座席91席中20席程度。個人的タイトル『快楽の経年的横滑り』。

おかわりちょうだい
ビコリの背後にいるのは誰だ。ニコラス・ローグ的構図

指輪 日本でもすっかり世界最年長監督(ギネス申請中?)として認知されるようになったオリヴェイラ監督の日本での最新公開作は、66年にルイス・ブニュエル監督が作った問題作『昼顔』へのオマージュ(おまんじゅう?)とされ設定を引き継いだものとなっています。ブニュエル監督の『昼顔』自体は、95年のデラ・コーポレーションによるロベールとレイモンのアキム兄弟製作作品の特集上映「大いなるフランスの遺産」の折、丸の内シャンゼリゼで観ました。フランス映画祭と映画誕生100年の連動企画のひとつだったようですが、憶えているのはカトリーヌ・ドヌーヴさまのパンティごしに確認できる陰毛(そんなとこかよ〜冷や汗)と、虚実がないまぜになって進行していく展開の素晴しさ(最初と最後が繋がる円環運動〜っ)だけで、ブニュエル監督の邪な夫婦生活への眼差しは、まだよくは理解できませんでした。ブニュエル監督の縦縞なチンピラへの眼差しは、痛いほどよく理解できました。この『夜顔』は当初、銀座テアトルシネマ(旧西友)で上映されていましたが、劇場内が広告収入いのちな女性向け雑誌に煽られた有閑ババアのエキス臭出まくりが予想されたので(ほらフィリップ・ガレル監督の『夜風の匂い』で懲りてるしさぁ)、軽く躊躇していたのでしたがユーロスペースでの旧作込みでの上映会に変更されたところで鑑賞となりました。いや俺もメタボなジジイなんだけどね。

ワイングラス 鑑賞するに当たりただひとつだけ予感がありました。それは、ブニュエル監督が原作小説を元に、例えば積極的にヒエラルキーを無化させることで醸し出されるチャタレイ系性的倒錯だとか(『流されて』(74)のリナ・ウェルトミューラー監督は大いに触発されたと思われる)、ひとりの男の入れ知恵による夫婦生活の崩壊、あるいは愛の忠実への奇妙な執着とその方法といった金色夜叉的展開(ウソウソ)を扱っているのに対して、オリヴェイラ監督はまた別のものを彼らしいやり方で扱うのだろうということでした。つまり続編ではないだろう、と。現代に生きるオリヴェイラ監督の“世界のまなざしへの旅”の面目躍如だろうと。『昼顔』でのマルセル風に言えば“続編なんて意味ねぇだろうがよこのアホ、そんなもん誰が観るってんだ、この青二才が!大体がよ、ありゃあの女の性的幻想に過ぎなかったんだぜ”と。それが確信になったのはピコリさんが演奏会の会場でオジェさんを発見して見失うまでに費やされた時間です。おそらくブニュエル監督はこういうことはやらないでしょう。ここでオリヴェイラ監督はこの映画がピコリさん目線で進行することを宣言しているようです。でもちょっと待ってください。私たちは映画を観る時、その目線を自分のものと同一視しがちですけれど、ピコリさんのそれはとても下衆なもののように思われて、しかもピコリさん自身の風貌が好好爺といった趣きなものですから、これにはちょっと注意が必要のようです。なんか悪意のようなものも感じます。でも懐かしいものとの邂逅にも見えます。それではいったい何を扱ったのでしょうか?

プレゼント 『昼顔』で問題となったのが、東洋人(日本人のフリをした中国人)がドヌーブさんに見せる箱の中身は何じゃろな?ということだったんですが、ここはそんなこと知るはずもないピコリさんが、同じものをオジェさんにプレゼントする次第です。あの時は興味津々だったそれはここでは完全に拒絶します。何か音がしてますけど今回もそれはシークレットで私たちは確認することはできません。もっともブニュエル作品的には『自由の幻想』でジャン=クロード・ブリアリ先生がこっそりと見せる写真で、モニカ・ヴィッティさんがどっきり興奮ラブなどという、思わせぶりなシーンがありますから、単なるブニュエル流のお遊びなのかもしれません。それとも観る者のシュールレアリズム的想像力を試されているようでもあります。個人的には、動物に模した日本製の男性用性具なのではないかと思っていますが、娼婦という立場の女が、道具によって身体を弄ばれることにこの上なく屈辱を感じるというブニュエル監督の皮肉のように思えます。今、『夜顔』の時代はもう快楽追及のためなら手段を選びません。人間の身体は巧みに経済に取り込まれて、肉体の主体の在りかを確認することはもうないように思えます。有り体に言えば自己の領域への自尊心を見失っている時代。だから他人のそれも理解できず同じように振舞おうとします。他人への批判という行為は、まるで自発的なもののように思えますが、実は操られているのかもしれない。日々起きている軽率な事件を想起してみます。健康という名の商売を検証してみます。グーグルの考える輝く未来がそうなのだとしたら、ジョージ・オーウェルさんが予告した一極集中的全体主義への恐怖(≒戦争)は、もはや時代遅れになったようです。根こそぎの生殺しと認識不全。思い出しました、『昼顔』と同じ年、ジャン=リュック・ゴダール監督は『彼女について私が知っている二、三の事柄』(主婦売春じゃないか!)でそんな社会の風景を考察しています。誰もが皆、肉体の市場に参加しているのだと。既に正気を取り戻しているオジェさんは、箱を受け取ることはありません。オジェさんは夫を失ったことによって絶望を引き受けたというより、欲望の彼岸に到達したのではないかとさえ思えます。それともまだまだ本当の自分を隠蔽しているのでしょうか。いや、やっぱり『昼顔』での出来事はひとりの女の甘い性への幻想とモラルとの葛藤の夢物語だったんでしょう。オジェさんは人類の希望のように人知れず輝き始めます。おお、それはピコリさんが仰ぎ見た“神かけて私自身であるという名のジャンヌ・ダルク”像ではありませんか。ピコリさんあなたはいったい何者なんでしょうか。ええ、セブリーヌ夫人の忠実なる使徒であります。

新幹線 『メフィストの誘い』(95)でドヌーヴさんを起用し、その後『家路』(これにはピコリさんも)でも『永遠(とわ)の語らい』でもドヌーヴさんをオーダーしたオリヴェイラ監督にとって、なぜ今回はドヌーヴさんではなくオジェさんだったのかについて考えてみます。具体的な詳しい情報は判りませんが、それは当然と言えると思います。ここで取り上げられている問題は時間の経過だからです。ドヌーヴさんが女優ドヌーヴ時間を生きている以上、ここでのセブリーヌという人生を生きた女のその後を演じるには、すこぶる無理があるというものです。それは人生の葛藤の痕跡がないということです。なにしろドヌーヴさんといえば無表情ということになっています。それにオジェさんにはコメディエンヌとしての所作がある。ピコリさんが興味を持つために、全てがガラッと変っていなければなりません。

雨 『昼顔』における女性の二重生活と、ユーロスペースのあるここ渋谷区円山町を強引に結びつける時、どうしても思い起こされるのが10年前の当時、マスコミがさかんに騒いでいた所謂“東電OL殺人事件”なんですが、OLどころか超一流大学(と言われている)出身のキャリア管理職社員であり、毎日退社後、複数の客をひいていた街娼だったことからずいぶんスキャンダリスティックに扱われたものでしたけど、この方の場合、パパ主役の帝国(コピーライト中川敬)の家庭が、その主人公を早くに失ったことによって家庭内秩序の軋みが表面化し、それを彼女自身が一手に引き受けようとした(父親も東電のエリート)ものの、現実的には依然として男性中心社会の世間にあって、自分の性を否定しようとしたのではないかと。帝国の礼賛者(=エレクトラ・コンプレックス)にとって権力者は常に男でなくてはならないからです。それが果たせぬものである以上、売春とは自傷的行為でありながら、自己男性化の儀式のようにも思えてなんだか切なくなってきます。男性なら見て見ぬふりをされるか軽く咎められる程度の立小便を、女性がしたらどうなのか。ともすると非健常者的扱いをされかねないことを思い知ったとき、その行為は世間への絶望と平穏な日常への挑発を、至極ささやかにしているようにも思えます。彼女は存在としての“男”に殺された、と言えるのかもしれません。対してセブリーヌさんはどうなんでしょう。少なくとも権力に対する目配せみたいなものはまったくないように見えます。いや、夫こそが彼女の中心だったのでしょうか。夫の存在が愛の起因だったんでしょうか。『昼顔』を観る限りちょっと疑わしいです。エマニュエル夫人は、夫によって性の喜びへと導かれるのでしたが、セブリーヌ夫人は最初から先走っているように思えます。そして幻想の果てに夫を不自由な身体に、横恋慕の男を殺してしまいます。女性の欲望が中心にあるようです。なんというフェミニズム映画なんでしょうか。

眼鏡 『夜顔』ではまたバーでの会話に時間が取られています。飲みすぎに注意であります。このブニュエル監督の好んだ場所で、ピコリさんとバーテンのベッカムさん(うそ)は、或る女の思い出の引継ぎを行います。ベッカムさん(うそ)も充分に判っていることなのに、敢えて初めて知ったかのようにわざとらしく振舞っています。バーテンの心得というものなのでしょうか。所詮男同士の会話などエロ話と相場が決まっています。あっ、ちょっと待ってください。ふたりの会話に激しく反応している娼婦らしきふたりの女(バビロン・シスターズと命名させていただきます)が流し目を送っていますが、ピコリさんはほとんど相手にしません。ピコリともしません(ダジャレはやめていただけないでしょうか)。商売女は愛についての皮肉を判ろうとはしません。表向きがすべてなのです。現実がすべてなのです。そして構造上は客体になってしまうのでした。これが銀座テアトルシネマにいらっしゃる女性客の65%(理論値)の実像であります。ちなみに岩波ホール、ル・シネマだと80%となります。

セブン 極私的な感想をひとつ。この映画を観ながら僕はずっとルネ・マグリットさんの「光の帝国」という作品が頭から離れなかったことを告白しておきます。ピコリさんが、マグリットさんの絵によく出てくる紳士に見えてきました。この映画は闇から始まり闇に終わるのでしたが、光と闇は互いに補完しあうのであります。これはパイプではない。そこら辺のことミシェル・フーコーさんにお聞きしたいわ、是非。

読書 パンフレットは700円(微妙な値上がり…)。印刷・製本所・デザイナー表記なし。B5中綴じ横開き20ページ。シナリオ採録なし。監督、出演者のプロフィールについては全く同じテキストがアルシネテランのオフィシャルサイト内『夜顔』コーナーで読むことができる。イントロダクションとストーリー(シノプシス)も一部割愛した同じテキストを読むことができる。気分の良いものではない。300円くらいが適正価格か。ついでに書くと音楽のライナーノーツ同様、パンフレットにおける批評というものは、自分のテキストを宣伝コピー化することだということを、執筆者は肝に銘ずるべきだろう。個人的にはシナリオと製作上の事実関係、おまけとして広告に使わなかったスチール写真だけあればいい。



満室 “私のラヴ・ストーリー”は最小の帰属意識を発見することのように思える。男はそこから逃走したいと願うだろう。
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