妥協せざる人々

映画館に観にいった映画についての感想文。

ドグマ・不純の誓い
―于颪辰娠撚茲亡脅佞靴燭
⊂暖饉圓箸靴討領場を明確にするぞ
1撚茣嫋泙竜_颪浪真佑砲睚薪であれ
け撚茲呂燭世修譴世韻農斬なんて持ち込むな
ケ撚茲乏壁佞韻鷲要ない
ι埔鰺な文章で失笑を買え
他人の価値観からの脱却を図れ
╋欧覿欧訖様佑竜せちを逆撫でてみろ
ナンバー・ワンではなく、ロンリー・ワンを目指せ(泣)
“映画好き”を自称しつつそれを貶める人間に憧れろ(号泣)


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お詫び
ただいま、個人的な理由により映画鑑賞が困難となっております。テレビ放送、あるいはビデオグラムなどでは鑑賞しておりますが、映画フィルムと劇場スクリーンがあってはじめて映画鑑賞が完成するという考えの下、当ブログのテキストは、劇場での鑑賞作品の感想に拘らせていただきたいかと存じます。暫しお待ちいただければ幸いです。
お知らせ
おかげ様をもちまして“未公開または書きかけ”のテキストが100を越えました。観たこと自体忘れている作品も少なくありません…。こんな僕を許してください。
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わたしはわたしの歴史を持っていない ◆愧でもかまわない』
JUGEMテーマ:映画 
08年9月13日(土)分

.潺吋薀鵐献Д蹇Ε▲鵐肇縫ーニ監督作品『夜』
    →9月13日付

▲献礇奪・ドワイヨン監督作品『誰でもかまわない』

07年/フランス/123分/カラー 配給:映画祭上映 原題:LE PREMIER VENU 字幕翻訳:未確認 鑑賞状況:客席8.5割程度。個人的タイトル『インプリンティング〜最初に発見した男』

予告編



有楽町朝日ホールでの『フランス映画の秘宝』。本日は久しぶりのジャック・ドワイヨン監督作品鑑賞です。新作なのでダブって鑑賞というリスクはありません。フランス映画祭では、その時の最新作が上映されたようですが残念ながら観られませんでした。リバイバルの『小さな赤いビー玉』も基本レイト上映でしたから不可能でした。つまり『ポネット』以来ということになりそうです。『ポネット』と言えばあの頃の“愛する人の死と心の中での再生”映画ブームの中で大いに当たって、おばさまたちの高級香水臭渦巻くル・シネマは、さながら悪魔的責め苦空間だったことを思い出します。強烈な匂いに弱いねんなオレ…。そんな『ポネット』のヒットがあったもののコンスタントにドワイヨン作品が輸入されることはありませんでした。ちょっと確認のために自分の映画鑑賞記録表を見てみたんですが、鑑賞したロードショー公開10本中9本が89年から93年の初頭でした。要するにバブルってことですよね。今回の来日でドワイヨン監督は、映画が作りにくくなっているといったようなコメントを舞台で述べたそうですが(もっともこれはジャック・ドワイヨン監督の口癖とも言えそうだが)、ある程度の余剰がなければドワイヨン作品は輸入もされないということでしょうか。少なくとも観客動員(利益)がすべてに先んずる目的であるということでしょう、崖っぷちですね。ドワイヨン作品は好きですから哀しい気分です。そこそこ話題になった『息子の部屋』以降のナンニ・モレッティ監督作品も同じ流れになっちゃうんでしょうか、実に心配であります。今回、『三重スパイ』が上映されるエリック・ロメール監督作品だって『グレースと公爵』(未見!)が限界で、恋愛ものでないと輸入しないと。ネームバリューだけで買われるのは難解であることがおしゃれらしいゴダール作品くらいでしょうか。認識の限界を他人のせいにできる難解という言葉はベリー便利です。解釈への唯一の流儀なんてものは無い。各々勝手にしやがれ!

 ドワイヨン作品の登場人物たちはいつも切羽詰っているように見えます。ちょっと深呼吸でもして落ち着きましょうよ、という感じです。男と女の別れ話の諍いでこの映画は始まりますが、やはり行き場を見失って出口なしの状況です。男は女を嫌がっているのですが、生理的に感じるだけでそれが立場(生活格差)の違いだということには気づけない。都会育ちの若い女と妻子持ちのチンピラもどき。端から見ればこんな不相応なカップルも無いでしょう。そして人間関係は不確かで緊張しています。それぞれの人間関係が、はたして恋人同士なのか、夫婦なのか、親子なのか、幼なじみなのか判然としません。それはまるで戦闘状態と言ってもいいかもしれない。女は嫌われていることが判っていて、でも男について行く。それは誰でもよかったけれどそこに愛のようなものを見出したかったからか?動機は見えてこない。ドワイヨン作品を観る肌触りというのは、このような相互依存とか寄生、そして支配(時には役割さえ)に依らない日常のことでした。誰もが(子供さえ)前提としてひとりで立っているように見えます。橋田寿賀子先生の長期ホームドラマシリーズ『渡る世間は鬼ばかり』はそれぞれが諍いながらも家族的依存への憧憬で成り立っている(それぞれのセリフは同じモラルを語っている)ように思われますが、ここでは既に目指す先は破壊されている、或いは時代に即した再構成を待っている。そういった時代状況の中で、ここ日本ではとっくに解決済みであるはずの、永遠の愛に至ることや協同の成果への大団円などという物語が、なぜ抗うように、しかも若い人たちが語らなければならないのか。それは政治と経済の要請です。映画は大衆を相手にする娯楽産業だから、これでいいのだ。しかしそれは道具として飼い慣らされることのプロパガンダでもある。娯楽の中には、単純でリスキーなメッセージが潜んでいるので要注意なのだ。皮肉なことにバブル景気の経験は、戦後経済の状況と呼応するように形骸化していく愛を疑った多くの日本映画の歴史をリセットし、断絶を引き起こしたかのようです。新しい戦前が始まったのでしょうか。吉田喜重監督作品が極北のように思えてきます。

 紆余曲折〜右往左往の末、チンピラ(=コスタ)は娘の母親とやり直すことを決心し、ここで物語は一件落着のように思えます。今一度落ち着いて思い出してみます。この映画の主人公は“(自称)ええとこのお嬢”である少女(=カミーユ)でした。しかしここで解決したのはコスタの家庭生活への再出発です。そこにカミーユは入り込めません。自分の居場所ではないからです。自分の人生ではないからです。サイドストーリーは語られてメインテーマは隅に追いやられ、すすきを揺らす風のように流れています。メインテーマとは彼女が抱える心の空白だったでしょう。それは最後までついに語られることはない。浮ついた期待は彼女には寄り添わないから、わたしたちは彼女への感情移入を阻まれている、というドラマ。しかしエンドタイトルと無機質なドビュッシーの音楽の中で、観た者の心を何かが覆いつくし、しかしそれはついさっきまで見ていた荒涼とした風景そのものだったことに気付く。それはパリであってはならない−これはドワイヨン監督の一貫した意思のようです。映画が終わると彼女の彷徨も終わり彼女のための時間が始まるのか、また他の誰でもいい誰かを見つけて同じボランティアを繰り返すのか、それは判りません。彼女は“自分のための人生”を生きることを保留しているように思えますが、何かを発見する過程にあるようにも見える。それは当然、私有財産の量は幸福を形成するのに有用かといった問題の彼岸を行くものです。

 しかしもう一度顔を洗って出直してみます。コスタの当初の価値観は、女は家事労働と性的な対象でさえあればよいというものです。だから自分の思うようにならない複雑なカミーユを鬱陶しく思うのでしたが、カミーユが体を張って用意した娘との束の間の時間の中で、他者との欲望の折り合いを学習し、家庭への帰還の足がかりを作るのでした。それはまさに世界の再発見、既知との遭遇です。誰もが陥りそうな他者が存在しない奇妙な世界シミュレーションの罠からの帰還。カミーユは他者に希望を仮託し、手助けを実行するとき教条を持たない宗教者のように見えます。コスタの娘がまるでカミーユのように思えてなりません。コスタの家庭生活にカミーユの明らかにされないそれが透けて見える。これはやっぱり彼女自身の救済の物語だったんでしょうか。

 男の立場としては、ひとりの女をめぐるゝ瓩瓩心愀検´求められた関係(=刑事らしい男) 6眩を介在する関係(=不動産屋)という図式が気になるところです。

 撮影はサンドリーヌ・ヴェッセ監督との仕事で知られるエレーヌ・ルヴァール(ルバール)。『15才の少女』でシューマンを使ったドワイヨン監督は、ここで「亜麻色の髪の少女」が有名なクロード・ドビュッシーの前奏曲第一集から「とだえたセレナーデ」を選んだ。演奏はアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリのグラモフォン盤による。ドワイヨン組の音楽担当者、フィリップ・サルドはアンドレ・テシネ監督作品で手一杯だったのかな?コスタには『ピストルと少年』のジェラルド・トマサン(すっかりジジイですね)。カミーユは映画初出演だというクレマンティーヌ・ボーグラン。誰かに似ていることを差し引いても魅力的ではある。


 記録表を見て気づいたんですが、エリック・ロメール作品のようにシネ・ヴィヴァンが大半だと思っていたのに実際は劇場はバラバラ、シネ・ヴィヴァン −シネセゾン配給は『ピストルと少年』だけでした。記憶なんていい加減なものですね。単なるボケという気もしますが…。日仏学院では特集上映もされるようですが、前述の通りあまり用はあり ません。どーせやるなら未公開作品字幕付けてよ、でしょ?あ、フランス語学校だからリスニング能力前提?フィルムセンター所蔵の2本もいつか500円で観られる日を心待ちにしたいと思います。フィルムセンター貸出フィルムはセンターの入場料に準拠とかないかな。ケチ?いや、キチンとロードショー公開していただけたらと。でもよかったですね、フランス映画祭上映作品はフィルムセンターに所蔵されるということが判っただけでも。

 映画鑑賞記録−ジャック・ドワイヨン監督作品
89年10月 『恋する女』ユーロスペース(同配給)
89年11月 『ラ・ピラート』俳優座シネマテン(同配給)
90年2月 『イザベルの誘惑』シネ・ヴィヴァン六本木(にっかつ)
90年8月 『家族生活』シネセゾン渋谷(にっかつ)
90年8月 『15才の少女』俳優座シネマテン(同配給)
91年3月 『女の復讐』キノ青山(アルバトロス・フィルム)
92年1月 『ピストルと少年』シネ・ヴィヴァン六本木(シネセゾン)
92年5月 『ふたりだけの舞台』キノ青山(プレノン・アッシュ)
93年3月 『愛されすぎて』銀座シネパトス1(アルシネテラン−アミューズ)
98年1月 『ポネット』ル・シネマ1(エース・ピクチャーズ)

          ねっ!
    あなたはわたしかもしれない、わたしはあなたかもしれない。

 
   
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