妥協せざる人々

映画館に観にいった映画についての感想文。

ドグマ・不純の誓い
―于颪辰娠撚茲亡脅佞靴燭
⊂暖饉圓箸靴討領場を明確にするぞ
1撚茣嫋泙竜_颪浪真佑砲睚薪であれ
け撚茲呂燭世修譴世韻農斬なんて持ち込むな
ケ撚茲乏壁佞韻鷲要ない
ι埔鰺な文章で失笑を買え
他人の価値観からの脱却を図れ
╋欧覿欧訖様佑竜せちを逆撫でてみろ
ナンバー・ワンではなく、ロンリー・ワンを目指せ(泣)
“映画好き”を自称しつつそれを貶める人間に憧れろ(号泣)


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お詫び
ただいま、個人的な理由により映画鑑賞が困難となっております。テレビ放送、あるいはビデオグラムなどでは鑑賞しておりますが、映画フィルムと劇場スクリーンがあってはじめて映画鑑賞が完成するという考えの下、当ブログのテキストは、劇場での鑑賞作品の感想に拘らせていただきたいかと存じます。暫しお待ちいただければ幸いです。
お知らせ
おかげ様をもちまして“未公開または書きかけ”のテキストが100を越えました。観たこと自体忘れている作品も少なくありません…。こんな僕を許してください。
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恋愛は経済活動か 『8月の終わり、9月の初め』
JUGEMテーマ:映画 

々澳康男監督作品『非行少女ヨーコ』
    →5月16日付

△△た森魚監督作品『僕は天使ぢゃないよ』
    →5月17日付

オリヴィエ・アサイヤス監督作品『8月の終わり、9月の初め』

98年/フランス/112分/カラー 配給:特殊上映 原題:FIN AOUT.DEBUT SEPTEMBRE 字幕翻訳:丸山垂穂 鑑賞状況:満席 個人的タイトル『告白的主体論序説』



私がオリヴィエ・アサイヤス監督作品を始めて観たのは、93年11月にシネ・ヴィヴァン六本木に於ける『パリ・セヴェイユ』(91)のことでした。その時の表記はアサヤスでしたよね。当時はオリヴィエ・アサイヤス作品というより、やはりシネ・ヴィヴァン六本木で89年にロードショーされたピエール・ブートロン監督作品『サンドイッチの年』(87)に主演したトマ・ラングマンの出演作という認識だったと思います。93年は春にも彼出演のジャック・ドワイヨン監督作品『愛されすぎて』(92)が公開されてますし。その後、今回字幕なしで上映される『イルマ・ヴェップ』(95)も確かシネセゾン渋谷でロードショーされましたけれどそれは観ませんでした。この時もまだアサヤス表記だったんです。両作とも配給は、今はなき日本ヘラルドで幸先の良い日本紹介ではありました。私の中でオリヴィエ・アサイヤス監督が決定的な存在になるのは、98年5月に開催された「アニエスb.は映画が大好き」で上映された『冷たい水』(94)からのことです。有楽町朝日ホールがスノッブで一杯になった(個人的感想です…)、ゴダール監督作品『はなればなれに』より重要だったと言い切ることができます。同年シネセゾンは解散し、翌年末にシネ・ヴィヴァン六本木は再開発のために建物ごと無くなりますから、エリック・ロメール監督のように常連になることはありませんでした。アサイヤス監督の作風から言って、それは受け皿が無くなる以上、作品の日本配給公開が非常に困難になることを意味しているでしょう。時代が変っていなければ、飯田橋駅から何もない通りを歩いて、蒸し暑さの中あまり現像が良いとは言えないフィルムを観ることもなかったのかもしれません。さて、この『8月の終わり、9月の始め』ですが、これは確かいつかのカイエ週間で上映されたんだと思いましたが忘れました。その時は果たせず10年近く鑑賞の機会を待っていたことになります。自然と期待は高まります。

 劇中、ヨーゼフ・ボイスの絵画を、作家エイドリアンの死後若い恋人に遺産として譲るという件がある。それはこの映画の重要なヒントのようだ。私の中には、イヴ・クラインとヨーゼフ・ボイス、このふたりのアーティストは、いつも心のどこかに引っかかっている。簡単に言うとマルセル・デュシャンが種を蒔いた、芸術に於ける価値そのものの価値を問う姿勢があったから、あるいはあらゆる事物・事象が貨幣価値に還元される時生じる疎外感へのまなざしがあるから。要するに主体のありかはどこかということだ。逆転させると権力の真実の民主化を見据えている。今はまだ自由を謳歌しているようで実は手のひらで遊ばれている“おいしい生活”。ヨーゼフ・ボイスの芸術は取っつきにくいが、それは彼の意思表明であるとともに言語そのものでもあるからだ。主体的であることを誰にも引き渡さないということなのだろう。特にヨーゼフ・ボイスは、政治的イデオロギーより経済セオリーの方がより強力で、欲望に忠実だから世界を覆いつくす脅威であることを理解していたのだと思える。まして宗教はもはや形骸化して諍いの火種だ。誰も逃れられないその中で“わたし”はどう生きるのか?という問い。世界は総客体であったという世界同時不況は判っていた事なのだ。そして“影響”と名付けられた病の蔓延は暗示的だ。政治や経済への関心は、それが個人への抑圧装置だからに他ならない。抑圧装置は画一的であることを強要する。いや強要するのではない、慣れさせるのだ。麻薬のように疲弊させるのだ。この映画の中では、経済にかかわる出来事が二つ出てくる。ひとつはガブリエルとジェニーが恋愛(結婚生活?)を解消するために愛の巣であったアパルトマン を他人に売却し、借金返済の当てにしようとしているまさに“金の切れ目が縁の切れ目”といったシークエンス、もうひとつはガブリエルの友人であるエイドリアン が、旧作小説が売れないとガブリエルに嘆いているシークエンスだ。ともに冒頭で提示されている。これはわたしたちが日常、他人の言語で生活していることの現状確認だった。作家エイドリアンの創作とは、そこからの脱出の思索だったのかもしれない。しかし洗脳された経済原理主義者にその言葉は届かない。ひとつの事例を引いてみたい。村上隆への不快感は、あらかじめ跪いた上で、宮廷絵師の真似事をやっていたことにある。顧客は金持ちの田舎紳士、あるいはブランドという名の奇形コレクター。世界戦略とは、自分の客体さの認知運動だ。要するに王様に褒められたい家来の自己確認。日本人は村上のアートが剽窃であることが判っていて黙認した。同時不況後の彼の発言は、あきれるほど他人事で自己肯定甚だしいが、客体としてその場にいた“主犯”なのだと思える。おそらくこの茶番は、忘れられるか徒花という末席しか与えられないだろう。ボイスが生きていたらこの馬鹿騒ぎをどう見たのか。案外面白がったのかもしれない。当然、それはニッポンビジネスマンへの嘲笑の系譜として。

 個人や法人が投資した資金は、リスク回避の名目で分散される、それは同時にその資金に付帯していたはずの欲望を粉砕して本質を判らなくする。マネー・ロンダリングとはそういった類のものだろう。これを踏まえて日常生活を捉えてみるとどうなるのか。当初のガブリエルは、恋愛において客体であった。それは肉体関係(共通言語)から始まったとも言えそうだ。仕事は編集者だが、心の中では実作を行いたいとは思っている。でもそれができないのは、体質が客体だからであって実作は主体的でなくては作り出せない。文字に触れながらも忸怩たる想いだけが募る。出来たように見えるものは、寄せ集め(編集)られた剽窃であるだろう。客体は寄せ集まって無為なおしゃべりをするしかない。アパルトマンの売却は、ふたりの愛の歴史の廃棄を目論んでいるのだが、うまくすすまない。会うとまた愛し合ってしまう。そこに人間性(主体)というものが浮かび上がってくる。一方人間は、付帯している付加価値に過剰な評価を与えると、恋愛がインフレを起こし実態が見えなくなる。ストーリーは語れても構造は語れなくなる。しかもストーリーは使い古されたものだから無意味この上ない。『余命1ヵ月の花嫁』とは、恋愛関係に於けるインフレーションを観せられているとも言える。ここでの付加価値は一方の死であることは言うまでもない。実に魅惑的で麻薬的だ。カウントダウン・トゥ・エクスタシーだ(何のこっちゃ)。しかし男と女の人間関係の何が判ったというのか。カルマは見えない。でも商品としての映画は顧客満足的だ。これに対してガブリエルの日常は、ふたりの女の間でデフレ基調が続いていた。実作を志して編集者を辞するものの、取って代わった場所は政治家の文章代筆に過ぎない。そんなある日、ガブリエルは写真でしか知らない亡きエイドリアンの若い恋人を発見する。それは彼女が自ら選択した人生の中で、生き生きと輝いている風景だった。反動的な態度は微塵もない。過去への未練もない。その時、ガブリエルは主体として生きることのすばらしさを認知するのだ。ヒエラルキーに拠らない何かを掴むのだ。このように世の逆相を捉えるところに、オリヴィエ・アサイヤスという表現者の真骨頂があり、私の心を掴んで離さない。『パリ・セヴェイユ』にも父親の若い愛人という設定がある。世代間の時間の継承とは、アサイヤスにとってどれほど重要なことなのだろう。

 今回のアサイヤス特集のために作られた三つ折チラシを確認したい。アサイヤスの著書の一部が引用されている。それはそのままボイスが言った“社会彫刻”という概念を説明しているように思えてならない。ボイスは生きていること自体がアートであるという。誰もが何らかの形で社会参加を目指す世界。それが権力集中というリスクから回避するための市民の唯一の手段なのだろうか。

 ガブリエル役のマチュー・アマルリックとジェニー役のジャンヌ・バリバールのふたりは、どうしてもアルノー・デプレシャン作品を思い出してしまう。アンヌ役のヴィルジニー・ルドワイヤンはやはりシネ・ヴィヴァン六本木でロードショーされた、ブノワ・ジャコ監督作品『シングル・ガール』(95)の孤独な少女が印象的だった。そこでのルドワイヤンの役は、ホテルのルームサービスの少女だが、ホテルのテレビで放送されていたのは『ハクション大魔王』だったな、なんてくだらないことを思い出した。撮影はアサイヤス組と呼んでいいドニ・ルノワールさん。都合描写を一切排除したリュック・バルニエの編集も刺激的だった。

公開資料

チラシ



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