映画
?ダンカン・ジョーンズ監督作品『月に囚われた男』
09年/イギリス/97分/カラー/スコープサイズ/ドルビーデジタル 映倫レートG(どなたでもご覧になれます) 配給: ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント(クラシックス) 原題:MOON 字幕翻訳:小寺陽子 個人的タイトル『Amaizing Cicada Man!』『アイ・スペア』
予告編
予告編を偶然観たのですが、どう考えてもダグラス・トランブル監督作品『サイレント・ランニング』(72年)に影響を受けているようなので興味を持ってしまいました。『サイレント・ランニング』は、日本での劇場公開が86年で既にカルト化していた気がします。しかしもう24年も経っちゃったんですね。ちょっと勘弁してよ、であります。劇場は、今はシネクイントになっているSPACE PART3(当時は多目的ホール)。当日の直前には、ユーロスペースでマイケル・ホッジス監督の『モロン』(84年)を観ているので、マイSF大会だったようです。しかもその前の週には、ジェームズ・キャメロン監督作品『エイリアン2』(86年)を観ています。実は、その月の前半が、「アテネフランセ」と「スタジオ200」での?フレディ・M・ムーラー監督特集?で、すっかり頭がクラクラしてしまったためのリハビリ的映画観賞だったのではないかと。なにせそれを遡る3か月前のPFFで、ジョン・ウォータース監督作品『ピンク・フラミンゴ』(72年)とケネス・アンガー監督特集で頭脳を破壊されてますんで、非常に脆くなっていたことは事実です。翌月はついに1本も映画を観ることができなかったのでした。
しかし映像がスタイリッシュだからといって、例えばローマン・コッポラ監督作品『CQ』(01年)みたいな、特撮映画(こっちはロジェ・ヴァディム監督作品『バーバレラ』(67年)とかかな?)にあこがれつつも結局はフェデリコ・フェリーニ監督の『8 1/2』(63年)のような内幕もの、映画好き(=オレ様)が映画を作ることの映画を作ってみました〜風味になっている可能性も否定できず注意が必要です。つまり作ることだけが目的化して中身ピーマンかもという不安。ただ、オールCGではなくミニチュアを使用した特撮は、撮り方も工夫されていて悪くない印象。監督ダンカン・ジョーンズは、あのディヴィッド・ボウイの息子らしいのですが、親の知名度は子供の才能の保証にはなりませんのでね。仮にセンスが良くてもそれはボウイとは直接関係ありませんので。 例えおやじが『スペース・オディティ』(69年)作ってニコラス・ローグ監督作品『地球に落ちてきた男』(76年)に出演したとしてもね。と、血統を無自覚に称賛&中傷することを、厳に戒める私なのであった(なんのこっちゃ)。
確かに、『サイレント・ランニング』の強い影響下にあるようだ。イギリス製作で月が舞台ならばTVシリーズ『スペース1999』(74年)なども思い浮かぶだろう。そして、クローンと記憶、背後にある陰謀を見るのならフィリップ・K・ディック原作の諸作品をも思い出すかもしれない。しかし、プロダクション・デザインや状況設定、演出に注目すればスタンリー・キューブリック監督作品『2001年宇宙の旅』(68年)はそれら以上に影響を与えているようだ。地球にいる家族との会話、出来立ての宇宙食に熱がったり、会話型制御ロボットとのやりとりなど枚挙にいとまがない。ただ、ここでは『サイレント・ランニング』のように、カウンターカルチャーとしてのユートピア指向、或いはグローバリズムからの良心的回避=アンチ環境破壊を扱っているわけではない。『2001年宇宙の旅』のように、システム化が人生を矮小にしていく進化の皮肉と、それを克服するための哲学的考察があるわけでもない。ではこの映画では何が描かれているのだろうか?パンフレットの監督のコメントによると、経済の要請によるグローバリズムの先にあるであろう宇宙の大航海時代(=資源調達)へのまなざし。そこには現在と変わらない費用対効果至上主義の中での人間疎外・労働搾取があるだろうという問題提起のようだ。しかしそれは、最後の最後に取って付けたようにナレーションで説明され、しかもTVドラマ『ザ・ハングマン』(80年)のように勧善懲悪として処理されるのだ。全体の雰囲気が嫌いではなかった私にとって、この唐突な大衆迎合的ご都合さ(ロボットの心変わりも…)はとても残念に思うのだが、これとてディヴィッド・ボウイのせいではない。しかし『2001年宇宙の旅』の、目的地までは棺桶のような装置で冷凍睡眠されている乗組員たち(クローンが隠されている場所も霊安室のようだ)や、ラスト付近にある自分が未来の自分に出会いながら老いていき、最後は超人として輪廻転生するというシーンに感化されながら、自分はオリジナルではなくクローン(コピー)であって、しかもそれが連鎖している、つまり追体験がエンドレスで繰り返される中のひとつでしかないことに主人公が気づくという、この残酷極まりない映画の製作を思いついたのだとしたら、『A.I.』(01年)を準備して成し遂げられなかったキューブリック監督は、果たしてどう思ったのだろうか。なぜ人々は、オリジナルを標榜する定型化された情熱に心を奪われながら、ときとして破天荒を蔑もうとするのか。自分がコピーだとも知らずに…。
私はこの映画に二つの想いを抱いた。ひとつは、地球とのリアルタイム交信が禁止されていることに不審を抱く“彼ら”が、そのバリアを解くために電波塔基地を破壊するシーン。雇用先がハングル系企業であれば、ラジオのチューニングは固定されているという北朝鮮の閉塞状況を揶揄したのではないかと想像してみる。隠ぺいされ飼い慣らされることとは?ルーチンワークで見失っていく政治性とは? もうひとつは、主人公が何度か妻とのセックスの幻想を視るのだが、それは地球へのノスタルジー的表現というより、生命誕生にメスのDNAですべてが賄える時代に於ける“終末のオス”の疎外感を感じるのだ。問題になっている精子の減少は、自然の摂理なのかもしれない。意味を無くしたオスは家族から捨て去られるかもしれない、という強迫観念。まるで関白失脚だ。それは愛に昇華される物語の一形式の終末でもあるのだろう。ボーイはガールに出会えないで幻影に自閉する。世の流れは、現実を逃れ単純で保守的なものに反動化しているようだが、真実のストーリーテラーに、未来はあるのだろうか。いや、男はもっと粗野な思い上がりと自己救済としての主権回復に特化すれば生き続けられるのだ。そのためにはなり振り構わず暴力を振るいますのだ。バーロー。文句あっか。ニャロメー!。これでいいのだ。人類の夜明けに逆戻りですのだ。
パンフレットは600円。ガーデンシネマ・イクスプレス(号数表記なし) 印刷/大洋印刷。製本所/表記なし。デザイン/平原史郎。182×182中綴じ横左開き表紙込み24P。シナリオ採録なし。表紙4P(表2は受賞歴、表3ベタ、ウラ表紙に英字クレジット)、写真などのページ計8P、イントロダクション2P、ストーリー 1P、キャスト&スタッフプロフィール(7名)1P、サイエンスノーツ(ヘリウム3について)1P、プロダクション・ノート2P、ディレクターズ・メッセージ1P、大森望(SFな評論家、?宇宙の話なのに派手なスペクタクルは一切なし?ってオイ)テキスト2P、クレジット&奥付1P。評価:ストーリー 、キャスト&スタッフプロ
フィールは公式HPと同文流用、無償配布〜300円の範囲でお願いします。
こういうデザインは絶対モアレるからさぁ…。
公開資料
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星の王子様風デザイン。ロゴタイプは『抱擁のかけら』に似てるような…。
新聞広告(L→Rいずれも夕刊、読売3月26日、朝日3月26日16面・3面、読売4月2日、朝日4月2日、朝日4月5日、朝日4月8日、読売・朝日共通絵柄4月9日、朝日4月23日) 宣伝担当者は朝日購読者をターゲットにしているよ
うです。毎日には入れなかったのでしょうか。
ブルーレイそしてサントラ。国内盤は出てないようで、これは輸入盤です・
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