妥協せざる人々

映画館に観にいった映画についての感想文。

ドグマ・不純の誓い
―于颪辰娠撚茲亡脅佞靴燭
⊂暖饉圓箸靴討領場を明確にするぞ
1撚茣嫋泙竜_颪浪真佑砲睚薪であれ
け撚茲呂燭世修譴世韻農斬なんて持ち込むな
ケ撚茲乏壁佞韻鷲要ない
ι埔鰺な文章で失笑を買え
他人の価値観からの脱却を図れ
╋欧覿欧訖様佑竜せちを逆撫でてみろ
ナンバー・ワンではなく、ロンリー・ワンを目指せ(泣)
“映画好き”を自称しつつそれを貶める人間に憧れろ(号泣)


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ただいま、個人的な理由により映画鑑賞が困難となっております。テレビ放送、あるいはビデオグラムなどでは鑑賞しておりますが、映画フィルムと劇場スクリーンがあってはじめて映画鑑賞が完成するという考えの下、当ブログのテキストは、劇場での鑑賞作品の感想に拘らせていただきたいかと存じます。暫しお待ちいただければ幸いです。
お知らせ
おかげ様をもちまして“未公開または書きかけ”のテキストが100を越えました。観たこと自体忘れている作品も少なくありません…。こんな僕を許してください。
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アンド・ホエン・アイ・ダイ  悒戰鵐献礇潺鵝Ε丱肇鵝/奇な人生』

JUGEMテーマ:映画 

.妊咼奪鼻Ε侫ンチャー監督作品『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』


08年/アメリカ/167分/カラー 配給:ワーナー・ブラザーズ映画 原題: THE CARIOUS CASE OF BENJAMIN BUTTON 字幕翻訳:アンゼたかし 鑑賞状況:5人 個人的タイトル『私の20世紀』

予告編




 この度のアカデミー賞では残念ながら主要な賞は取れなかったブラピ主演の『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』であります。恐いのはダメなので申し訳ありませんがデビッド・フィンチャー監督作品は初めて、しかも長尺なので鑑賞を躊躇していたのですが、広告に使われている写真を見て“これって『ルーブル美術館』展でも出品されているラ・トゥールやりたかったんちゃうの?”と思ったところで興味が湧いてきた次第です。こだわりの画面設計であるようです。

           

 ただでさえ通常ではない時間の進行に心を奪われやすい私ですので、この映画も魅せられてしまいました。成長が逆行する男の人生を、死せる老婆が回想するという物語。しかもそれは娘に受け継がれるのだから永遠と円環とが同時進行です。回想に於けるベンジャミン・バトン(ブラッド・ピットさん)と現実のデイジー(ケイト・ブランシェットさん)のそれぞれの死が、物語の進行により重なり合うということです。エッシャーの奥行きの錯覚を、映画という時間芸術に再構成させた時間軸的錯覚(ナンのこっちゃ)。過去がライブで現在がデッド?彼女(回想)の死は彼の死であり、映画の終末なのでした。随分と入り組んで複雑な構成をしています。男と女が愛し合い、進み方の異なるその人生を交差させるとき、ハチドリが舞うがごとくそれは無限になる(但しここでの意味は、むしろメビウスの輪のように思える)寓話。そういえばこの映画には直進ではないイメージが溢れていました。起こらなかった願望と現実の混濁、永劫回帰(老婆のスペシャルメイクは『2001年』のキア・デュリアに似ている→『ツァラトゥストラ』→ニーチェ)、ハリケーン(うずまき)、白人が黒人の養子になる、ラグタイム・ピアノの音色などなど、これらを“数奇な人生”のメタファーと理解したい。もはや気絶寸前であります。フィッツジェラルド原作とのことですが、いや一本取られました。そういえば『夜はやさし』でも物語は時間を前後するんでしたよね。

 私たちは皆、若かった過去の思い出とともに生きています。けして老いる未来ではないでしょう。寺山修司先生が“不完全な死体として生まれ何十年かかって完全な死体となる”とおっしゃったように、生まれた私たちが生きていけるのは、死という完全への時間は個人差があって判らないからですがベンジャミン・バトンはそうではなかった。自分の身体が人生の有限を表徴している。こんな残酷ってあるんでしょうか。やっぱりデビッド・フィンチャー監督は恐い系の人みたいです。それは冒頭の時計のくだりでそれとなく予告されています。老人が赤ん坊へというこの物語が、しかし荒唐無稽かどうかは私には判らない。私たちはまだ物質と時間の関係を何も判ってはいないのだから。“トンデモ”なんて言う連中は、地動説を哂い排斥した者の末裔なのかもしれません。

 デイジーがバレエ・リュスにアメリカ人として初めて招かれるというエピソードが出てきました。ただモダンバレエの始まりだけでは収まらない複合芸術の一方の結晶(興行としても)であるバレエ・リュスの座員になるということは、当時この上ないくらいの栄光だったんでしょう。だから事故でその輝く未来を断念しなければならないことは悲劇以外の何ものでもない。イカロスの翼が溶けて墜落した時、会社経営者の跡取りとして生まれながらもその身体ゆえに棄てられた(落とされた)男が愛を与えてくれた。しかし彼は野望を持つことを禁じられている。肉体と精神が乖離しているから、時間のかかる欲望を自分の手で現実化できない。愛も壊れるであろうことが理解できる。男は女の下を去る。物語の従来からすると男と女の立場が倒錯しているようです。ところでバレエ・リュスと言えば私なんかはアンナ・パブロワとかニジンスキーが思い浮かぶのですが、ニジンスキーは『潜水服は蝶の夢を見る』でも、主人公が入る療養所でその伝説が言及されていますよね。

 作品の趣旨に従ってふりだしに戻ってみます。老人として生まれることが荒唐無稽とは判断できないと前述しました。仮にそれがありえない話なのだとしたら、誰がそう望んだのか疑問に思えてきます。愛の理想が出会ってから死ぬまでを添い遂げるこのなのだとしたら、この男と女は事実認識として成功してはいません(誠に残念なのですが、世の中のほとんどの愛と呼ばれるそれは、果敢な挑戦と無残な失敗を繰り返すものと思われます!)。しかしそれは愛が未遂に終わったわけではなく、願望に至らなかっただけであって確かに存在はしていたのだと。老婆はその死に際して、男の人生を意図的に逆転させて物語る(困難を持ち込む)ことによって、“予め欠落している愛(ミッシング・リンク)”を完結させたのではないかとも受け取れます。それにそうしておけば“今死ぬ私”は誕生することにもなりますし。合理によって絶えず完全を求められる現代の私たちの人生は、それゆえ困難を極めるもののように思えます。もっと楽に生きりゃいいじゃん。身の丈に合わない劇的なるものの憧憬と実人生への誤った導入は、ただそれだけで敗北している、と言ったら言葉が過ぎるでしょうか。

 先ほど時間芸術である映画へのまなざしについて述べました。特筆しておきたいのは冒頭の“つかみ”のシーンです。戦場に行って死んだ愛する息子は、時間を戻すことによって生き返ることが出来る、とは映画そのものことです。またカラーフィルム以降の過去時制表現は黒白(Black&White)が通常ですが、ここではさらに進んで着色を施している点にも注目しておきたい(実際はカラーフィルムのデジタルによる色彩加工なのだと思われる)。過去は人為的に加工することによって現代に蘇るのか?(=デイジーの回想)、それは正しい選択なのか?デビッド・フィンチャー監督はそう世間に問うているのでしょうか。劇中何度も出てくる“雷に撃たれやすいオッサン”のエピソード(単純に笑えるし不死について考えさせられる)が一貫して黒白だったことを思い出してみてください。何年か前にクラシック作品に対しての着色、いわゆる「カラライゼーション」にウディ・アレンさんやスピルバーグさんが反対を表明していましたよね。しかもここでは着色だけでなくご丁寧にフィルムキズやらゴミ・欠落まで再現しています。手塚治虫先生の野心的なアニメ『おんぼろフィルム』を思い出しました。デジタル化、フィルムレスによって失うものは、物体(メディア)に対する偏愛だけなんでしょうか。やっぱり映画も…(突然の死)。



 アレクサンドル・デプラさんの音楽はけしてドラマの邪魔をせずすばらしいものでした、それはまるで夢の中でまどろんでいるかのようです。ヒーリング・ミュージックとしても有用かもしれません。

 パンフレットはブラピ人気を当て込んでか900円と強気できました!印刷・日商印刷/製本所記載なし/デザイン・川上圭三(川上デザイン室)/編集・奥野多絵(松竹株式会社事業部)。200×236平綴じ縦左開き(横組み)表紙込み88ページ。表紙4P(ウラ白)写真32P、監督の言葉1P、コピーとアカデミー賞ノミネート紹介1P、目次1P、イントロダクション2P、ストーリー2P、椎名誠インタビュー2P、ブラピのインタビューとプロフィール2P、ケイト・ブランシェットのインタビューとプロフィール2P、斉藤博昭(映画ライター)テキスト2P、監督のインタビューとプロフィール2P、綾戸智恵(シンガー)インタビュー2P、その他のキャスト・プロフィール8名4P、白石一文(作家)インタビュー2P、プロダクション・ノート3P、プロダクション・ノート3P、八木亜希子(アナウンサー)インタビュー2P、プロダクション・ノート4P、宮脇俊文(大学教授)テキスト2P、鬼塚大輔(映画評論家/大学教授)テキスト2P、プロダクション・ノート4P、藤子不二雄Ⓐ(漫画家)インタビュー2P、スタッフ・プロフィール13名4P、クレジットと奥付1P。 イントロダクションは公式サイトと同文でPDFでDL可能。キャスト&スタッフ・クレジットも同文か少し手を加えた程度であり共用と考えても良さそう。内容てんこもり過ぎるので、通常の中綴じパンフで500円でお願いします。表紙はフラクタルと考えても宜しいんでしょうか?



公開資料

チラシ






 ユニバーサル・ミュージックからの国内サントラ盤もチカラ入ってますよ二枚組。1枚目はアレクサンドル・デプラさんによるオリジナル曲、2枚目はセリフ入りのフィーチャー曲など全46トラック3000円!買う人いるのかな?通常1枚2500円だとするとお買い得?エドワード・ホッパーの表紙になってるフィッツジェラルドの原作&その他の短編は角川文庫より。あらら、これももうDVD出てるんですか、じゃ劇場で観ないよね。
二作品オスカー受賞に思うこと
 JUGEMテーマ:映画

『おくりびと』が外国語映画、『つみきのいえ』が短編アニメ部門でオスカー受賞

 今回の米アカデミー賞は、日本映画のそれぞれの部門での受賞は初めて、しかも複数受賞も初めてということで大きな話題となっています。ニュース的な感想はかどわかされてに書きました。明るいニュースを渇望していたところのジャストフィットだったんでしょう。『おくりびと』に関しては、能動的に劇場で観ることはないと思いますが(すごい混んでるみたいだし、テレビ局製作だから来年、地上波初登場とか言って放映されるんでしょうから)、主演の本木雅弘さんや監督の滝田洋二郎さん、あるいは原作本とされている書籍の著者への言及といったものはありましたが、脚本の小山薫堂さんへの言及が無かったことがちょっと不思議ではありました。個人的には、事業も手がける放送作家って基本的に疑ってかかっているわけです。ホイチョイなんていうバブリーな言葉も連想しますが、なんか世の中の出来事、日常の機微がうまく漂白されて、キレイ事だけが目の前に供される。そういう印象が拭えないわけですよね。なーんて、半分冗談ですが。小山さんというと『料理の鉄人』を思い出します。ということはここで描かれているのは、死がどうのとか生き様がどうのとかというより、日本人の職人技の復権、という気がします。しかも大量生産が行き詰まりを見せて働く人も買う人も困っているこの時代。西洋(オーケストラ)から日本(個人)へという図式は、小山さんの的確なマーケティング力のすごさを物語るものだと思います。今度は一人で行くディスカバー・ジャパンやね(なんのこっちゃ)。とか言いながら私なんかは“葬式不要、戒名無用”なんて思っているくらいですから、様式への過度なこだわりはちょっと異様に見えます。逆戻りなんじゃないかと、人類の進歩はレリジョン・フリーの方向なんじゃないかと勝手に思ってたりもします。シンプルライフとか言いながら商売に初めから降参しているのもどうかなと。人生懸けてます!なんて意気込む兄ちゃんが作る一杯千いくらもする豪華なラーメンより、しょぼくれたジジイの作る支那そばの方が気楽でええねんなと。そこに原作者としてクレジットされることをこの著者が拒んだ宗教観・人生観の違いがあったのかもしれません。ああ、違うかな。私は役人の金の使い方をいつでも批判できるようにしておきたいとは思っています。

 滝田監督作品というのは『コミック雑誌なんかいらない!』を86年3月に今は亡き銀座並木座で、竹中直人さん爆演の『痴漢電車 下着検札』を87年12月に池袋文芸地下で観ただけですから偉そうなことは言えません。しかしそれ以来鑑賞が途絶えているのは、滝田監督(ないし脚本の高木功さん)の作品成立の流儀が、幾つかのコントがあってそれを登場人物によって数珠つなぎにしていくというものだからだったでしょう。劇場版アニメ『がんばれ!!タブチくん!!』にどこからでもご覧いただけるマルチラウンド方式というのがありましたが、そんな感じ。登場人物の精神的葛藤とその流れや心象風景はあまり重視されていないようでした。というかそういったものを廃して即物描写に徹するというような。それからもう20何年経っているので滝田監督がどう変化されているのか知る由もありません。それにしてもピンク出身監督としては異例にコンスタントなフィルモグラフィーですね。滝田監督くらいじゃないですか?割合メジャーな作品をこんなに撮れてるのは。変にこだわらないことが、まずタレント・原作ありきの製作委員会方式の映画に重宝がられているのかもしれません。時節的に興味深かったのは滝田監督の経歴紹介で、学歴も技術もなくしかも成人映画であり、なかなか喰えなかった時代があったという話。遡ればもう40年も前に映画業界は、役者・スタッフなど正社員と資産の処分という大リストラ並びに人材採用の見合わせ(技術継承の中絶)をやっているわけで、滝田監督はまさにそれを補うべく撮影所ではない場所で、映画業界のアウトソーシングに従事していたわけですから、この大不況の状況に於いてアメリカのアカデミー賞を受賞したというのは、なにやら因縁めいたものを感じます。しかもテレビ局の手助けで!ところでこの映画には、言わずと知れた伊丹十三監督作品『お葬式』での、山崎努さんと高瀬春菜さんの爛れた野外セックスみたいな、どうしょうもない生の本能みたいな描写はあるんですかね(あるわけねーだろ)。

 納棺士になる青年の物語ということで、思い出して是非観たいものだと思ったのは、『長距離ランナーの孤独』や晩年の『ホテル・ニューハンプシャー』などで知られるイギリスの映画監督トニー・リチャードソン監督の作品『ラブド・ワン』です。67年にATGで配給されたようなのでフィルムセンターには収蔵されているのでしょうか。リバイバルしてほしいものです。ここではなんでも商売になっていくアメリカ流ビジネスが皮肉を込めて描かれているようです。アカデミー会員のみなさんは観ているのでしょうか?


マイ・ハート・ストゥッド・スティル  愧狼紊静止する日』
JUGEMテーマ:映画 

.好灰奪函Ε妊螢ソン監督作品『地球が静止する日』


08年/アメリカ/106分/カラー 配給:20世紀フォックス映画 原題: THE DAY THE EARTH STOOD STILL 字幕翻訳:林完治 鑑賞状況:6人 個人的タイトル『ガイアの夜明け前』
予告編  


 正月を挟んで一ヶ月ちょっと振りの映画館での映画鑑賞です。去年もやっぱりこの頃に“今年最初の映画鑑賞”だったのですが、その後5月まで街に出られなくなり映画館に行けませんでした。聞くところによれば今は100年に1度のみぞーゆぅの経済危機だそうですが、今年の私の映画鑑賞は果たして大丈夫なんでしょうか。こちらも同様に危機が懸念されます。

 例年1本目は好きな監督の作品をということにしていましたが、今年は初めての監督の作品となりました。スコット・デリクソン監督であります。申し訳ありませんが初耳でした。SFは好きですのでこの作品がリメイクであることは承知していました。しかしその程度の興味です。キアヌさんの、或いはジェニファーさんの熱烈ファンというわけではありません。まぁ、定石のパースペクティヴなCG表現でも気軽に楽しむかといった感じです。久しぶりの映画鑑賞ですので肩慣らし的自主トレ的側面は否めません。しかし結果から先に言うと観るんじゃなかった…と、正月に飲み食い三昧の挙句、準備もせぬまま初日にキャッチャーを座らせて100球近く投げたかのような疲労感です。バテバテ。もっと心がウキウキワクワクと現実離れができる作品を選ぶべきだったかと。しかし映画は時代を反映するせいなのか、そういったものがほとんど見受けられないのもまた事実です。日本製の『感染列島』だって未見ですが、ここで描かれる新型ウィルスとは、おそらく人類に忍び寄る精神的荒廃と危機状況の暗喩でしょう。100年に1度の危機とは、かつてはその期末に表れるものでしたが、どうもそのスパンが短くなっているようです。この作品が面白くなかったというのではなく、余りに考えることがあって悩み始めてしまったのでした。

 アメリカではオバマさんが大統領に就任して、大いに盛り上がっているようですね。“CHANGE”というスローガンですが、いったい何を替えるのか?私が考えるにそれは、もう私的利益誘導を背景にした政治からわれわれ日常生活に及ぶ数多の権力闘争に、本来は進歩のための時間をいたずらに使うことは止めて、総体の幸福にどう個人が寄与できるかを考える、というものに思えます。いやいや、それもまたもっともらしいウソで、スローガンのウラに誰の思惑があるのか、何者のための総体なのかについて考えておくべきかと。別に欲望と身の丈の折り合いがつけば、ご自由にすればいいんじゃないですかね。それと成果や対価原理からの脱却、利益再分配の再検討も。不況だと文化一般もスポーツも大変ですが、これって元々無駄なことだったんですかね?人類にとっての成長点を摘み取るような真似はしていただきたくないんですがね。だからついに黒人がアメリカ大統領になった、などという視点でこのオバマ人気を理解すると危ういものになってしまうのではないでしょうか。新しいカリスマ到来ではなく、誰もが内包している見えにくいわだかまりからどう決別するのか。それは他人事ではないんでしょう。

 例えば恐竜が絶滅したとき、それは恐竜が無意識に“世界(他種)を食べつくす”という傲慢さを必要以上に大きくなった体内に宿したときに下された、絶対的誰かからの懲罰なのか、などと考えてみます。しかしすぐにそれが宗教的(=人為的)な道徳観に囚われた非自立的な、長いものには巻かれろ式人生の自分自身を暴露することになるでしょう。見えない絶対者からの天罰。そしてそれを突き詰めていくと無意味なオカルトになってしまう。なぜ私という主体の人生に、上から目線の超主体の懲罰を準備して事を複雑にするのか。この映画はそういった状況設定のように思えます。つまりこの宇宙人とは私たちの“罪悪感”の具現化なのではないかと。カーボン・オフセットに胡散臭さを感じるのは、それがキレイごとを言うヤクザめいた商売だからですが、散々戻れない消費の舞台を設定しておいて、返す刀で人質をとっての金品強奪のようにすこぶる退廃的な思考に思えます。免罪符で一儲け…ですよね。あんたたちの経済活動をいっぺん整理した上で消費者に理解を求めろよと。そんなに俺が悪いのか〜てなもんで。経済が時代を逆戻りさせてる。要するに先ほど他人事ではないと書きましたけれど、しかし実際はほとんどの大衆が客体として扱われていくだろう流れ。誰が主体というわけでもない。それを踏まえてこの映画を観ると、なるほどジェニファーさんだって自分の唐突な立場を理解しかねています。作中に“WE CAN CHANGE”というセリフが出てきますし、うっかりオバマ人気便乗急造映画のようにも思えますが、ここには彼のようなヒーローは不在なのでした。

 ここでキアヌ・リーブスさん演ずる宇宙人は“SAVE THE EARTH!”を人類絶滅への根拠としています。オバマ人気にはブッシュ批判という側面があり、それは遡って湾岸戦争・アフガン空爆・ベトナム戦争と数えたらきりが無い、大国アメリカの同じ停滞の手法への批判というものがあるでしょう。でもオバマさんが考えていることは、暴力を前提とした関係からの克服であるようです。もっとドライに無意味な軍事費の削減というものかもしれない。みんなせーので軍縮した方が経済的なんでないのと。もしやこの作品が、アメリカの人道的軍事介入を寓話として描いているのかもしれないと考えはじめました。アメリカが自分そっくりな、しかし勝ち目のない野蛮に出会うというシニカルでシリアスなSF劇。アメリカが自分の未来に突き当たったときに覚える嫉妬。しかしそれもすぐに違和感を覚えはじめました。私自身は、われら人類が“失敗と贖罪の歴史”だったなんていう地球規模的自虐に捕らわれたことは今までありませんでした。私がジェニファーさんだったら“よそ者がほっといてくれ!こっちは居住権があるんだよ”、とキアヌさんに反論したいところです。ああ、これは地球先住民の困難の物語なのか。でもそれってまだ人間目線です。人間VS地球という構図なんじゃないのではないか。またファシズム的なものへの不快感なのでもない。この映画は、共同で地球に間借りしている他の動植物目線で人類の行いをどう捉えるのか?それを仮に“人類禍”と名付けたとするとそれは自虐なのか自己満足なのか。人類は地球に対する害獣か。キアヌさん、あなたは物言えぬいのちを救済をするためにここに現れたのか?そもそも進化に伴う他動植物排他オフセットという取引はないのか?(ねーよ) あわわ、また罪悪感に逆戻りです。 ともかくこの映画には哲学的な考察があるようです。牛のげっぷはどーするよ?

 映画を観ながら思い出していたのはスピルバーグ作品『未知との遭遇』であります。リチャード・ドレイファスさんを始めとする主人公たちが、ひとつの異常事態に巻き込まれていく様は、とてもスリリングで当時小学生であった私をがっつり異空間へ連れ去ってくれました。ここでも光に導かれる群衆や世界同時多発UFO現象の描写、あるいは(ここではかりそめの)母子家庭などと影響を受けているシーンも見られるのですが、人間の葛藤は一切オミットされてそこに漂う時間は弛緩しています。だから少し判りづらい。人を描けば3時間以上になっていたのかもしれません。でもそうはしなかった。皆さん既に判っていることだからでしょうか。撮ったけれど製作者によってカットされたのでしょうか、気になるところです。そしてこの映画のストーリーは停滞して動こうとはしません。最後まで動きません。皮肉のように聞こえるかもしれませんが、これは状況認 識として感動的でした。崖っぷちに立たされて“がんばります”としか言えない人々。バイオ燃料の需要に伴う食料の高騰という本末転倒などなど、あの緑色の球体は、一見『創世記』のノアの方舟を連想させるものの(ゼロベースで始めないとまた同じ過ちに至るんでねーの?地球)、実は人類の良心の顔をした商売が引き起こすカオスの象徴なのでは ないか、こう思えてきます。話はこのあと、どうなったのでしょうか?しばらく経ってキアヌさんは戻ってきます。全然進展していないからです。“もー待ってらんねー”と。問答無用人類滅亡です。  またまたしばらく経って宇宙人も知的進化が進んで(逆なんじゃねーの?)、ディスカバー地球人のブームが起こります。地球人のムダだらけだけど楽しげな人生を嗜みたい。自分たちの合理至上主義を反省したりします。“ライフ”のダイナミズムは地球人の側にこそあったんじゃないか。アンドロイドに語らせる地球人の特性である愛の想い出めぐり旅。かりそめの母と子の機微。このあとは『A.I.』をごらんください。

 仏教徒の方には朗報です。56億7千万年後に弥勒菩薩様が降臨し、救済していただけます(無料)。それまで安心して輪廻転生をご自由に繰り返してくださいませ。リユース・リデュース・リサイクル〜 …って、これもやっぱり自己客体化、他力本願です。


※宇宙人(神)が推奨する“地球に優しい”地球人のライフスタイルの一例(骨投げ厳禁)



読書 パンフレットは定価600円/印刷・成旺印刷/製本所・表記なし/デザイナー・平塚寿江/300×223中綴じ横左開き横組/シナリオ採録なし/表紙込36Pノンブルなし内訳:表紙含む写真のみページ23P半/タイトル規格等1P/ストーリー1P/キアヌ・リーブス、プロフィール&インタビュー1P/地畑寧子(映画ライター)テキスト1P/キャスト(5名)・プロフィール/プロダクション・ノート2P半/高橋諭治(映画ライター)テキスト1P/監督プロフィール&インタビュー1P/スタッフ(7名)プロフィール1P//クレジット&パンフ奥付1P/DVD広告1P。パンフ内容は公式サイトとは別のテキスト・構成となっており好感が持てるが、写真を小さくしページ削減A4にして500円でお願い。



公開資料

チラシ

地球が静止する日b





 タイラー・ベイツさんによるサントラ盤(28トラック入り)はランブリング・レコーズより、小説は角川文庫から発売されております。ブルーレイももう出てるんだ、早いね
恋のエントロピー  悒好ΕА璽妊ッシュ・ラブ・ストーリー』

JUGEMテーマ:映画
08年11月17日(日)分

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69年/スウェーデン/114分/カラー 配給:スタイルジャム:ビターズ・エンド 原題: EN KARLEKSHISTORIA  字幕翻訳:松浦美奈 鑑賞状況:客席3.5割程度。個人的タイトル『そして憎しみに至る』


 ロイ・アンダーソン(スウェーデンだからやっぱアンデルソンとかじゃなくていいのかな?イーデス・ハンソン)監督作品は5年前の7月にシネセゾン渋谷で『散歩する惑星』を観ています。カンヌ国際広告祭(早口言葉か!)などCF業界ではつとに有名な方らしいのに、つまり企業の発注で宣伝映像を製作しているという立場なのに、植木等さんの『無責任男シリーズ』とはまた違ったやり方で、会社生活をこんなにもシニカルにおちょくるなんてすごい人だなと、その時は思いました。ですから続々の作品配給に胸が膨らみました。久しぶりにええもんめっけっ!てなもんです。しかしそれは叶いませんでした。しょうがないのでベント・ハーメル監督の『キッチン・ストーリー』でも観て茶を濁していました。いやいや、冗談です。これはこれで面白かったです。で、今回久しぶりで待望の新作『愛おしき隣人』と抱き合わせということで最初の長編劇場作?のこの作品がリバイバル配給ということらしいです。ワクワク。でもロードショーの恵比寿ガーデンシネマでは観られませんでした。もう相当端っこまで歩くのは億劫になっています。早稲田松竹での上映ありがたいです。

 みなさんがおっしゃられている通りの“幼い二人の恋の物語”だけにフォーカスして観ると、後半ダレてくるかもしれないです。想像するに短縮版だったという71年の最初の公開(小学校低学年なので鑑賞は無理、理解不可能)にあたりバッサリ切られたのは、後半のパーティー・エピソードだったんじゃないでしょうかと。本当にそんな“初々しくもほろ苦い”をテーマにしただけの作品なのでしょうか。ちょっと斜めから眺めてみようかと思います。確かに最初はそんな感じの演出です。バックには感傷的な音楽も薄く流れています。ちょっとストーリーを物語るというより、端から二人を観察している感じ、ああ、わたしにもこんな時期があったあった、微笑ましいなみたいな。時代を感じさせる映像詩的作品仕立て術。しかし鑑賞された方はお分かりのように、二人も恋も後半放置されてしまいます。すいません、話が途中なんですけど…と思ったまま親の立場へ移行してしまいます。子供と親の決定的な違いは、親は否応なく世間と対峙していること。私にはむしろこの作品は、恋の誕生からその破産を親子あるいは二つのカップルを使って巧みに計算して作られた作品のように思えてなりません。整理して言い直すと、或る恋愛遊戯の生まれてから死ぬまでについてを、若者たちは過去を、年配者は未来を演じるという時間のスパイラル。或いは親は子供の未来であり、子供は親の過去であるという寓話。抜けられないヒエラルキー。子供は親を見て自分たちの前途多難を知るのだとしたら、こんな皮肉なことはないでしょう。だからただ単に純粋な青春時代に対置させて、親の事情に時間が割かれているのではないと思える。先に『散歩する惑星』を観ていなければこうは思わなかったかもしれませんが、ロイ・アンダーソン監督作品にはアイロニカルな視点が満載のようで、一筋縄でいかないところが私はとても気に入っています。今回の2本を観るに当たっての良い予習になりました。しかもその対立軸が“男VS女”ではない。女はいつも置き去りにされて“男VS世間”となってでも世間は何なのか知らされない。過剰な想い入れは確認できても他人からすると思考停止状態や狂気にも見えてくる。だから観ている私は想像でそれを補わなければならず、例えば前半の若い世代のいきさつは、愛とは見詰め合うことなのだし音楽を奏でることなのだから(わぁ、ロマンチック!)これでいいのだ、と思いつつ、解禁されて数年経ったスウェーディッシュ・ポルノ映画が用いる愛に至る常套表現(=ラブ・ストーリー)への揶揄なのではないか、とついつい考えてしまうのです。少年の職場の同僚の男も、週末に給料を貰ったうれしさからか、女は男にやられるのを待っているとおっしゃっています。ただ単に自分がやりたいだけだと思いますが…。つまり性的な付加価値を持った記号がただ右往左往するだけで、ストーリーからは実体人生は窺い知れない。ポルノは見世物商売として“それ”が目的ではあるとはいえ、それに純化してしまうことは、どことなく当世流行の音楽に乗せて席巻する、訳知り顔で口当たりのいい言葉の羅列に、人生を見出す空しさ、或いはその気もないのに変わることに夢を抱こうとする政治的幻想、こういったものにどことなく似ている気がします。君が不在であればあるほど二人の愛は深まっていくのさ、とか何とか…。実体から幻想に想いが移行するとき、崩壊へのカウントダウンは始まるのかもしれません。有り体に言えば中身が無い。記号に恋焦がれることは危険なんじゃないかと。文民統制下の軍隊の立脚点は、あくまでも現実であってロマンではない。ロマンに移ると途端に大衆を巻き込む暴力になる。だからロマンは個人的なコンプレックスの克服だけにしといてもらいたい。がんばれ日本!ちょっと横道に言い過ぎました。 若年結婚と離婚率の増加と児童虐待を踏まえた上で再検討する恋愛のプロパガンダの作法。なかなかスパイスが効いていると思います。

 後半の少女の父親はどうでしょう。都市生活者の彼は、パーティーで招かれた田舎で混乱しているようです。いや、正確に言うとその前から既に混乱しています。社会生活につまづいて家族に八つ当たりの態です。彼がここで発見するのは、この地に住む人々が過剰に所有することに興味を持っていないこと。冷蔵庫がなくても地下で冷やすさ、魚は湖で釣るさ、物欲というものがあまり感じられない。それより人といっしょにゆったり楽しんでいたい方優先。彼の混乱が明らかになってくる。戦後、私が信仰してきた価値観って何だったの?ここと全然違うじゃないか!オレってエコノミック・アニマル?娘に向かってささやかな抵抗の雄たけびin森の中。“お前には金に不自由させないからな〜”“贅沢な生活を送らせてやるからなー”“こんなド田舎楽しくねぇぞー”と。そこで初めて映画の真意が自分勝手に見えてくる。打算とは無常であり、永遠の愛の誓いは無残だ。経済危機とは何のことはない精神的荒廃の一断面のことだろう。お金儲けいけませんか?いけなかないけどその副作用を他人に押し付けるなよと。愛を育むためにやらなければいけなかったことは何なのか?アンダーソン監督が私たちに暗示する世間とは何なのか?それは、ただ見守るだけでけして助けてはくれない、友達の振りをした不気味な群集なのかもしれない。村の人々は心配して探し回ってくれました。何にも代え難いものを発見したようです。おとーさん、気持ちが落ち着きました。

 スウェーデン映画と云えばイングマール・ベルイマン監督作品という見方が支配的のようですが、と同時にポルノ作品供給国というのが三昔前くらいの認知なんでしょうか。4年前に新文芸坐での中島貞夫監督特集で観た『ポルノの女王 にっぽんSEX旅行』(73)も、スウェーデンのポルノ女優クリスチナ・リンドバーグさんが極東まで遠路遥々出張出演ですので、北欧の性表現には当時相当の期待に股間が膨らんでいたのかもしれません。あんさんも好っきやなぁ。そんな中でこの作品も『小さな恋のメロディ』ブームというよりむしろ6年前におしゃれにリバイバルされた『私は好奇心の強い女』あたりのポルノ作品群のオプションとして輸入されたのではあるまいか?と勝手に想像してしまいます。真相やいかに。それはともかく、『ショー・ミー・ラヴ』(ルーカス・ムーディソン監督)という本国で大ヒットしたという作品が2000年に配給されて、ル・シネマなどでロードショー公開されています。30年後のスウェーデンの生活と青春はどうなったんでしょうか。未見が悔やまれます。

 製作された69年というと昭和44年ですが、今回の上映はデジタルリマスターされてということなのか、それとも元々なのか新作といっても信じてしまうくらいキレイな映像なので驚いてしまいました。例えば市川崑監督の『東京オリンピック』は当然65年ですから、この作品とて別に不思議ではないのですが、北欧の映画は状態が良くないという先入観がどういうわけかあります。なぜでしょうか。もしかするとソビエトや東欧映画鑑賞の経験がゴチャゴチャになってるかもしれません。しかも異国だからということもあるでしょうが、髪型や服装に流行が入り込んでいない(ように見える)ので違和感がない、故に新作のように感じられるということでしょうか。

読書 パンフレットは定価500円/印刷・北斗社/製本所・表記なし/デザイナー・大島依提亜/GARDEN CINEMA EXPRESS ナンバリングなし/B6中綴じ横左開き横組 /シナリオ採録なし/表紙込28P内訳:表紙4Pデザインのみ/写真等11P/奥付1P/テキスト川本三郎2P・姫野カオルコ2P・滝本誠2P/イントロダクション1P/レビュー1P/ストーリー1P/キャスト紹介(2名だけ)1P/スタッフ紹介(3名のみ)1P/クレジット1P。公式サイト(『愛おしき隣人サイト内』)とのテキストの共用はイントロダクションのみです。パンフレットはこうじゃなくちゃね。『愛おしき隣人』パンフが600円なら400円合計1000円でよろしくお願いします。ちょっとわがままでしょうか。


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パンフレット表紙 オモテとウラ ロゴの色は実際にはメタル系です。

▲蹈ぁΕ▲鵐澄璽愁鶸篤頂酩福悵Δしき隣人』
    →11月17日付

『ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情』展(国立西洋美術館)
    →これはパイプではない(別ブログ)
わたしはわたしの歴史を持っていない ◆愧でもかまわない』
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08年9月13日(土)分

.潺吋薀鵐献Д蹇Ε▲鵐肇縫ーニ監督作品『夜』
    →9月13日付

▲献礇奪・ドワイヨン監督作品『誰でもかまわない』

07年/フランス/123分/カラー 配給:映画祭上映 原題:LE PREMIER VENU 字幕翻訳:未確認 鑑賞状況:客席8.5割程度。個人的タイトル『インプリンティング〜最初に発見した男』

予告編



有楽町朝日ホールでの『フランス映画の秘宝』。本日は久しぶりのジャック・ドワイヨン監督作品鑑賞です。新作なのでダブって鑑賞というリスクはありません。フランス映画祭では、その時の最新作が上映されたようですが残念ながら観られませんでした。リバイバルの『小さな赤いビー玉』も基本レイト上映でしたから不可能でした。つまり『ポネット』以来ということになりそうです。『ポネット』と言えばあの頃の“愛する人の死と心の中での再生”映画ブームの中で大いに当たって、おばさまたちの高級香水臭渦巻くル・シネマは、さながら悪魔的責め苦空間だったことを思い出します。強烈な匂いに弱いねんなオレ…。そんな『ポネット』のヒットがあったもののコンスタントにドワイヨン作品が輸入されることはありませんでした。ちょっと確認のために自分の映画鑑賞記録表を見てみたんですが、鑑賞したロードショー公開10本中9本が89年から93年の初頭でした。要するにバブルってことですよね。今回の来日でドワイヨン監督は、映画が作りにくくなっているといったようなコメントを舞台で述べたそうですが(もっともこれはジャック・ドワイヨン監督の口癖とも言えそうだが)、ある程度の余剰がなければドワイヨン作品は輸入もされないということでしょうか。少なくとも観客動員(利益)がすべてに先んずる目的であるということでしょう、崖っぷちですね。ドワイヨン作品は好きですから哀しい気分です。そこそこ話題になった『息子の部屋』以降のナンニ・モレッティ監督作品も同じ流れになっちゃうんでしょうか、実に心配であります。今回、『三重スパイ』が上映されるエリック・ロメール監督作品だって『グレースと公爵』(未見!)が限界で、恋愛ものでないと輸入しないと。ネームバリューだけで買われるのは難解であることがおしゃれらしいゴダール作品くらいでしょうか。認識の限界を他人のせいにできる難解という言葉はベリー便利です。解釈への唯一の流儀なんてものは無い。各々勝手にしやがれ!

 ドワイヨン作品の登場人物たちはいつも切羽詰っているように見えます。ちょっと深呼吸でもして落ち着きましょうよ、という感じです。男と女の別れ話の諍いでこの映画は始まりますが、やはり行き場を見失って出口なしの状況です。男は女を嫌がっているのですが、生理的に感じるだけでそれが立場(生活格差)の違いだということには気づけない。都会育ちの若い女と妻子持ちのチンピラもどき。端から見ればこんな不相応なカップルも無いでしょう。そして人間関係は不確かで緊張しています。それぞれの人間関係が、はたして恋人同士なのか、夫婦なのか、親子なのか、幼なじみなのか判然としません。それはまるで戦闘状態と言ってもいいかもしれない。女は嫌われていることが判っていて、でも男について行く。それは誰でもよかったけれどそこに愛のようなものを見出したかったからか?動機は見えてこない。ドワイヨン作品を観る肌触りというのは、このような相互依存とか寄生、そして支配(時には役割さえ)に依らない日常のことでした。誰もが(子供さえ)前提としてひとりで立っているように見えます。橋田寿賀子先生の長期ホームドラマシリーズ『渡る世間は鬼ばかり』はそれぞれが諍いながらも家族的依存への憧憬で成り立っている(それぞれのセリフは同じモラルを語っている)ように思われますが、ここでは既に目指す先は破壊されている、或いは時代に即した再構成を待っている。そういった時代状況の中で、ここ日本ではとっくに解決済みであるはずの、永遠の愛に至ることや協同の成果への大団円などという物語が、なぜ抗うように、しかも若い人たちが語らなければならないのか。それは政治と経済の要請です。映画は大衆を相手にする娯楽産業だから、これでいいのだ。しかしそれは道具として飼い慣らされることのプロパガンダでもある。娯楽の中には、単純でリスキーなメッセージが潜んでいるので要注意なのだ。皮肉なことにバブル景気の経験は、戦後経済の状況と呼応するように形骸化していく愛を疑った多くの日本映画の歴史をリセットし、断絶を引き起こしたかのようです。新しい戦前が始まったのでしょうか。吉田喜重監督作品が極北のように思えてきます。

 紆余曲折〜右往左往の末、チンピラ(=コスタ)は娘の母親とやり直すことを決心し、ここで物語は一件落着のように思えます。今一度落ち着いて思い出してみます。この映画の主人公は“(自称)ええとこのお嬢”である少女(=カミーユ)でした。しかしここで解決したのはコスタの家庭生活への再出発です。そこにカミーユは入り込めません。自分の居場所ではないからです。自分の人生ではないからです。サイドストーリーは語られてメインテーマは隅に追いやられ、すすきを揺らす風のように流れています。メインテーマとは彼女が抱える心の空白だったでしょう。それは最後までついに語られることはない。浮ついた期待は彼女には寄り添わないから、わたしたちは彼女への感情移入を阻まれている、というドラマ。しかしエンドタイトルと無機質なドビュッシーの音楽の中で、観た者の心を何かが覆いつくし、しかしそれはついさっきまで見ていた荒涼とした風景そのものだったことに気付く。それはパリであってはならない−これはドワイヨン監督の一貫した意思のようです。映画が終わると彼女の彷徨も終わり彼女のための時間が始まるのか、また他の誰でもいい誰かを見つけて同じボランティアを繰り返すのか、それは判りません。彼女は“自分のための人生”を生きることを保留しているように思えますが、何かを発見する過程にあるようにも見える。それは当然、私有財産の量は幸福を形成するのに有用かといった問題の彼岸を行くものです。

 しかしもう一度顔を洗って出直してみます。コスタの当初の価値観は、女は家事労働と性的な対象でさえあればよいというものです。だから自分の思うようにならない複雑なカミーユを鬱陶しく思うのでしたが、カミーユが体を張って用意した娘との束の間の時間の中で、他者との欲望の折り合いを学習し、家庭への帰還の足がかりを作るのでした。それはまさに世界の再発見、既知との遭遇です。誰もが陥りそうな他者が存在しない奇妙な世界シミュレーションの罠からの帰還。カミーユは他者に希望を仮託し、手助けを実行するとき教条を持たない宗教者のように見えます。コスタの娘がまるでカミーユのように思えてなりません。コスタの家庭生活にカミーユの明らかにされないそれが透けて見える。これはやっぱり彼女自身の救済の物語だったんでしょうか。

 男の立場としては、ひとりの女をめぐるゝ瓩瓩心愀検´求められた関係(=刑事らしい男) 6眩を介在する関係(=不動産屋)という図式が気になるところです。

 撮影はサンドリーヌ・ヴェッセ監督との仕事で知られるエレーヌ・ルヴァール(ルバール)。『15才の少女』でシューマンを使ったドワイヨン監督は、ここで「亜麻色の髪の少女」が有名なクロード・ドビュッシーの前奏曲第一集から「とだえたセレナーデ」を選んだ。演奏はアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリのグラモフォン盤による。ドワイヨン組の音楽担当者、フィリップ・サルドはアンドレ・テシネ監督作品で手一杯だったのかな?コスタには『ピストルと少年』のジェラルド・トマサン(すっかりジジイですね)。カミーユは映画初出演だというクレマンティーヌ・ボーグラン。誰かに似ていることを差し引いても魅力的ではある。


 記録表を見て気づいたんですが、エリック・ロメール作品のようにシネ・ヴィヴァンが大半だと思っていたのに実際は劇場はバラバラ、シネ・ヴィヴァン −シネセゾン配給は『ピストルと少年』だけでした。記憶なんていい加減なものですね。単なるボケという気もしますが…。日仏学院では特集上映もされるようですが、前述の通りあまり用はあり ません。どーせやるなら未公開作品字幕付けてよ、でしょ?あ、フランス語学校だからリスニング能力前提?フィルムセンター所蔵の2本もいつか500円で観られる日を心待ちにしたいと思います。フィルムセンター貸出フィルムはセンターの入場料に準拠とかないかな。ケチ?いや、キチンとロードショー公開していただけたらと。でもよかったですね、フランス映画祭上映作品はフィルムセンターに所蔵されるということが判っただけでも。

 映画鑑賞記録−ジャック・ドワイヨン監督作品
89年10月 『恋する女』ユーロスペース(同配給)
89年11月 『ラ・ピラート』俳優座シネマテン(同配給)
90年2月 『イザベルの誘惑』シネ・ヴィヴァン六本木(にっかつ)
90年8月 『家族生活』シネセゾン渋谷(にっかつ)
90年8月 『15才の少女』俳優座シネマテン(同配給)
91年3月 『女の復讐』キノ青山(アルバトロス・フィルム)
92年1月 『ピストルと少年』シネ・ヴィヴァン六本木(シネセゾン)
92年5月 『ふたりだけの舞台』キノ青山(プレノン・アッシュ)
93年3月 『愛されすぎて』銀座シネパトス1(アルシネテラン−アミューズ)
98年1月 『ポネット』ル・シネマ1(エース・ピクチャーズ)

          ねっ!
    あなたはわたしかもしれない、わたしはあなたかもしれない。

 
   
愛してると言えないなんて  悒薀鵐献Ц爵夫人』
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08年8月1日(金)分

.献礇奪・リヴェット監督作品『ランジェ公爵夫人』

06年 フランス:イタリア。137分。カラー。ビスタ。配給 セテラ・インターナショナル 原題 NE TOUCHEZ PAS LA HACHE 字幕翻訳 寺尾次郎 鑑賞状況 観客20名程度。個人的タイトル『愛はさだめ、さだめは死』

予告編 大きくして見てね
     

指輪 ジャック・リヴェット監督作品というのは、今までそれほど熱を上げたという経験はなかったのですが、どうゆうわけか割合観ています。どういうわけか−ではなくて“ヌーベルヴァーグ”という洗脳のなせる技というものです。世間的には今でもこの題目だけで魚は釣れるわけです。50年経って“新しい”言われてもねぇ。それはそうとこうやってフィルモグラフィーを見てみると、80年代以降の作品はほとんど輸入されているようです。コムストック様、お疲れ様でございました。今回はセテラ様の二十周年記念ということですが、今後のリヴェット作品の配給はどうなることでしょうか少し心配です。リヴェット作品と言えば、比較的上映時間は長いのですが、語りが簡潔なので飽きないのだ、とは言えると思います。無駄の無さ、何を語るために何を省くのか、これはそのお手本のように思えます。というか無意味に饒舌になっていく“わたし”を如何に抑制するか、私自身が見習いたいと思います。4時間近い『美しき諍い女』でもそれは当てはまります。そして完璧な色彩設計。撮影のウィリアム・ルプシャンスキー(表記の統一が望まれる)はリヴェット作品に欠かせない存在でしょう。『美しき諍い女』はエマニュエル・ベアールの全裸が登場しますが、国際映画祭の特例だったはずの無修正オリジナル?フィルムで観て良かったと思います。その後の『ディヴェルメント』は明らかにローキーで焼かれていて好きではありません。修正の配慮があったんだと思います。それから通俗的な音楽の挿入がないのも個人的には好感を持っています。

カチンコ 一般的に言ってこの恋愛劇は、夫ある身の女と戦によって名を上げた男との、認識や作法の違いによって生じた悲劇の物語といったもののように見えます。つまり女にはこの寸止めの非日常が目的であるのに対して、男は女体そのものだとか"公爵夫人"といったステイタスを手に入れることが目的であるようです。もっと簡単に言うと、女は成就しない狭い世界で行なわれる情念の戯れに向かっているのに対して、男は社会(的立位置)に向いているようです。しかしそれは愛の誕生の反作用によって交差して寄り添わず立場は逆転してしまいます。エンディングの一つ前のシーンを取り出して、冒頭に持ってきたのはおそらくそのような語りの意図があったものと思います。沢田“ジュリー”研二さんがヒット曲『ストリッパー』で唄うように真実の愛は裸にならなければ始まらないのであります。この二人は脱衣できなかった模様です。しかし解釈としてどうも釈然としませんでした。夫人が“女の身の処し方”に沿って孤立無援(老いた同性の恋愛へのまなざしは“依然として”嫉妬であってだから教訓にならない)になるのに対して、男たちは卑怯にも徒党を組んでいることや、上流社会の言葉の使い方を嘲るモンリヴォーの友人たちに見られる“正装した卑賤”とでも言ったシーン、こういった演出に何かもっと別のものへのリヴェット監督の視線というものを意識せざるを得ないのです。例えばこうも言えると思います。“軍人は恋愛に於いても戦略的である、そしてそれは悲しくも相手を破滅させなければ終われない、それが軍人の本質だから。そのやり口は彼の熱狂者が彼の威厳を保つように後々修正さえ施されるだろう”リヴェット監督はこの映画で、好戦的な人物の取り繕えない浅ましさというものを描きたかったのではないか、そう思うようになってきました。だとすると前述の冒頭シーンの位置が、リヴェット監督の結論の前置きだということが判ります。すなわち“人としてではなく目的として奪還されることを拒んで死を選択した公爵夫人の生き様”それは自尊心に生きることに他ならない。営利的効率と不寛容に世界が覆いつくされそうな時代に、その“戦略”は表現者として当然のことに思えてきます。そこにはまたフェミニズムの目配せもあるのかもしれません。

桜 映画の中で何度か、夫人がモンリヴォー愛用の葉巻の匂いを嗅ぐシーンがあります。それは当然モンリヴォーの口唇への憧憬であるでしょう。と同時にその形状から言って…リヴェット監督の禁欲的演出に倣ってこれ以上の言及はしないこととします。

音楽 万年筆のカリカリといった音、モンリヴォーの不自由な足のブーツの音など音響にも配慮が為されているのはリヴェット作品通常進行です。静寂から立ち上がる気配とは何なのか。音楽が垂れ流される現代において、聴覚情報は虐げられ蔑まれて本質が確認しづらくなっているようです。繰り返し繰り返し同じものを大量に与えられて私たちは、耳が聞こえなくなっているのかもしれません。不審なものに巻き込まれたくなければ五感を鍛えろ。

読書 パンフレットは700円。印刷・成旺印刷。製本所・表記なし(成旺印刷?)。デザイナー・表記なし EQUIPE DE CINEMA 166。B5中綴じ縦左開き表紙込40ページ。シナリオ採録(14P)、解説とストーリー(2P)、目次(1P)、エキプ・ド・シネマ封切映画一覧表(2P)、奥付と次回上映作品紹介(1P)、監督インタビュー(1P)、キャスト&スタッフクレジット(1P)、フランス文学者・渡邉一民(2P)、フランス文学者・鹿島茂(2P)、学習院大学教授・中条省平(2P)、映画評論家・和久本みさ子(1P)、作家・木崎さと子(1P)、服飾研究家・深井晃子(1P)、慶應義塾大学講師・杉原賢彦(3分の2P)のテキストはパンフレットのみ。監督プロフィールとフィルモグラフィ(2P)、バルザック紹介(3分の1P)、主要キャストプロフィール(2P)は公式サイトと共通。イントロダクション&ストーリー、スタッフプロフィール(3名分)は公式サイトのみ。久しぶりに岩波ホールのパンフレットを買いましたが、いつの間にやら表紙ウラには広告が!いっそ“昔の方が良いのやってたじゃん”な封切映画一覧表もしつこいのでやめて(公式サイトで見てね)、冒頭の岩波ホール礼賛テキストもやめて(岩波ホールで観てないし…)、そこにも広告入れて定価下げていただけると。フランス映画だとよく見かける鹿島−中条ってのもいい加減飽きました。解釈に於ける正しさってなんだよ、オイ。むしろ当作製作当時のフランス国内状況を語れるジャーナリストにお願いしたい。それとパンフ界に燦然と輝く成旺印刷なのにカラー写真の色味が気になります。で希望価格600円。

見つめ合う二人

かわいい
アイ・ソー・ザ・ライト  悒好圈璽鼻Ε譟璽機次
JUGEMテーマ:映画

08年7月10日(木)分

.Εシャウスキー・ブラザーズ監督作品『スピード・レーサー』

08年 アメリカ。135分。カラー。シネスコ。配給 ワーナー・ブラザーズ映画 原題 SPEED RACER 字幕翻訳 松崎広幸 鑑賞状況 観客10名程度。個人的タイトル『レーシング家族フリンストーン(でもお父さんはマリオ)』。

予告編


虫眼鏡 基本的にハリウッド製娯楽系映画というのは、無かったものとして扱ってしまうというイケナイ傾向にある青二才な私です。しかし、ある日偶然テレビのチャンネルをぐるぐる当ても無く回していたところ、今回のこの映画の公開に合わせてということでしょう、日テレで『マトリックス・なんとかかんとか』をやっていたのでうっかり見てしまいました。キアヌ・リーヴスさんが女の人のお腹に手を入れて弄っているシーンでした。いや〜んエッチ!ラブ しかしすぐ気を取り直しあっ、と思いました。だってアイルランドの写真家、ボブ・カルロス・クラークさんの写真集『オブセッション』そのままのイメージだったからです。なかなかやるわいウォシャウスキー兄弟、と思いました。そして今まで無視してしまった自分を深く恥じました(ホントかよ)。やっぱり映画は観てみないと判らない…。しかも止せば良いのにムービー・プラスでこの映画の特集番組を見てしまいました。これがなんと、日本のアニメ番組『マッハGOGOGO』の実写化だというではありませんか。タツノコプロは『カバトット』が大好きですが、『みなしごハッチ』や『いなかっぺ大将』『ガッチャマン』をはじめとする戦闘ものなど色々見ていたものの、それほど心に響くものはありませんでした。今考えると不思議です、なぜでしょうか。心を占有する別の何かがあったようです。しかしそれとは関係なく『マトリックス』が画期的なこだわりの映像なら、今回の映画はどうだろう?どうくるのだろう?興味が湧いてきてしまいました。やっぱり青二才です、修行が足りないです。そしてコンピュータ・グラフィックス満載のカーレースシーンを見て、ある確信ができました。これは絶対、劇場のスクリーン&ドルビー+DTS音響で観るべきだと。たまには頭を空っぽにして映像に身を委ねてみるのもいいだろう。私はそこでウォシャウスキー兄弟の“映像の遍歴”を確認するはずなんだ、そしてそれは私自身のものでもあるんだ、と。

テレビジョン 彼らの“映像の遍歴”とは何でしょうか?イルミネーションの洪水の中で私はふたりの特撮映像作家のことを思い出していました。ひとりは『2001年宇宙の旅』(またですか?)の特撮担当者のひとりダグラス・トランブル。そしてもうひとりは、数多くの先駆的CMを創ったことで知られているロバート・エイブルその人です。これは私の想像でしかないのですが、アメリカで70年代を少年として過ごしてきた人にとって、彼は憧れの存在だったのではないでしょうか。光の洪水と言えば『2001〜』のスターゲート・コリドーと呼ばれるシーンが有名ですが、お茶の間にあるテレビで繰り返し映し出される彼のコマーシャルは、むしろ“原体験”として有力のように思われます。子供時代のプリミティヴな視聴覚体験とは理屈ではない。その存在自体に圧倒されること。そしてワクワクする麻薬的経験。サイケデリックとは、大人になることを迫られていた人々が、理詰めを捨てて肉体へ回帰することだったのかも知れません。ウォシャウスキー兄弟はこの映画で、家族の結束というテーマを振りかけながら、彼らの少年時代の今日的再現を試みているように思えてきます。それは同時に、知識は豊富になったものの依然として愚かしい時代への問いかけのように、私自身に錯覚をもたらすでしょう。

革命的なCM、7UP“バブルズ”映像と音楽のミスマッチぶりもステキ。


リーバイス“ブランド・ネーム”


トランブルによるバーチャル・リアリティを扱った先駆的SF作品


テレビジョン 内容を見ていきます。レーサー家の次男、スピード・レーサー(名前)はいつもカーレースのことを考えている少年です。尊敬する兄レックスは、その花形レーサーですがレース妨害を疑われ、出場したレースで事故に巻き込まれ命を落とした、とされています。スピード(名前)も青年となり輝かしい成果を上げカーレースを牛耳る巨大自動車会社ローヤルトンにスカウトされます。しかし違和感を覚え独立した立場を貫くことを決意します。輝く未来(或いは彼の過去形の夢)を手に入れられなかったローヤルトンCEO&COO(独裁者)はとたんに態度を豹変。こう言い放ちます“カーレースとは私が作った私のためのストーリーなのだっ!”八百長だったのです。出来レースだったのです。それにしても貴重で迂闊な告白ありがとうございます。そこでスピード(名前)はレースに一途だった兄が、彼らに暗殺されたことを悟るのです。スピード(名前)と彼の家族の戦いが始まろうとしています…。ちょっと引いて考えて見ます。勧善懲悪物語とは、困難を克服し最終的にヒーローが勝利することになっています。つまりヒーローのための出来レースです。この映画は、悪役の出来レースを告発するためのヒーローの出来レースストーリーという入れ子構造のようです。逆に言うと勝ち目の無い戦いに挑む、健気な悪役の悪あがき一幕物という感じです。まっ、それがセオリーなんでしょうけど。別の方向に引いてみます。ウォシャウスキー兄弟はメジャー・プロダクションで、精神の自主性を説こうと魂胆しています。これもまた皮肉な入れ子構造だと思われます。大衆を相手にすることはむしろ滅私奉公だからです。ローヤルトンも実は、自由主義経済下の悲しき囚われ人(=彼自身の価値を構築できない)だからです。そしてスピード(名前)は、名前によって人生を運命付けられています。レースのことを考えることは自分のことを考えること。レースに勝つことはアイデンティティであること。なんだかウォシャウスキー兄弟の複雑な企みが見えてきたようです。

PC ウォシャウスキー兄弟、そしてこの映画のVFXスーパー・バイザーであるジョン・ゲイターは同世代ですから、同じ映像遍歴を共有していることは想像に難くないでしょう。『マトリックス』の次に彼らはどのような技術的コンセプトを思いついたのか。気が付いたシーンを思い出してみます。冒頭、少年時代のスピード・レーサー(名前)がノートに描いているのはパラパラマンガです。誰もが通ってきたであろう簡易アニメーション遊びです。またレースシーンでは、コースの壁面にシマウマの絵が描かれていて、車を追っていくとそれらも走ってるように見えてきます。これは初期のアニメーション装置とされるゾーエトロープのCG再現ではないでしょうか。さらにゾーエトロープとは、トランブルやエイブルが使った特撮画像生成装置、スリット・スキャンの原型となったものでしょう。ゲイターはトランブルの弟子筋に当たる人なので、技術的継承がなされたものと思われます。ゲイターがこの映画で用いたバブルという手法は、球体の内側に背景となるマットペイントを貼り付け、その中に主写体を置いて視点を固定し、球体自体を動かす(=モーション・コントロール)といったもののようですが、円柱を動かすことによって、その内側の画像が運動しているように見えるゾーエトロープから、仮想の球体を動かすことによって、その内側の画像が運動しているように見えるVFXは、まさにアナログからデジタルへの進化を感じさせるものです。そしてそれはアニメーションの歴史と言えるものでしょう。ウォシャウスキー兄弟とジョン・ゲイター(と共同作業者のダン・グラス)は、静止しているものを動かせて命を与える(ANIMA+MOTION)、といった作業自体に敬意を払ったように思えます。それはVFXが映画製作における単なるコストパフォーマンスではないのだという気概、技術者魂といったものなのでしょうか。人生の一断面とは、何かしらを継承して発展させ、それをまた次世代へ繋げていくことでしょう。それは歴史認識が前提であることは当然です。しかし例えば日本の若い世代の人々は、商品化された技術を容易く手に入れることによって、技術史から乖離しているように思えます。いや、前の世代が体系化して伝えていないようです。そこから新しい何かは生まれてくるのでしょうか。実験映画と呼ばれるものはそれほど観ているわけではありませんが、それでも評判になった伊藤高志さんの『SPACY』は四谷時代の狭いイメージフォーラムで、ご本人の解説付きで観ていて、ただただその画面に圧倒されました。まさにサイケデリックだと思います。ここにもコマ撮りにおけるモーション・コントロールという技術的な問題もあるのですが、メディア(フィルム)上の、“実景と複製(写真)”という興味深い視点が既に提出されています。このような技術が、個人的なレベルで埋もれてしまうことが残念でなりません。この作品のVFX作業は、複数のVFXスタジオで行われているようですが、イギリス・フランスなどのアメリカ以外のスタジオも参加しているもののそこに日本のスタジオが無いことに一抹の寂しさを憶える次第です。

鉛筆2 スピード・レーサー(名前)は、レースによってアイデンティティを獲得するのだと先ほど述べました。ウォシャウスキー兄弟たちが作り出したエンドレスのレースコーナーとは、映画フィルム(=人生)そのものであって、ノートに描いたパラパラマンガは立体化して動き出したということでしょうか。これは映画製作とエンタテインメント産業のメタファーにも見えます。

サッカーボール 日本からはサニー千葉越えを目指す、真田広之さんがご参加です。日本人としては、当然日本原作ですから女性も含めもっと出演があってもいいと思うんですが、俳優組合が絡んでいるのか資本の関係なのか、中国人が日本人を演じるという『SAYURI』な結果となっています。がんばれメイド・イン・ジャパン。さぁ、じゃNOVAで英会話の勉強を始めましょうかね。日本の新進俳優のみなさん。

ラテ 事の真相究明のためにスピード・レーサー(名前)に助っ人が用意されています。レーサーXです。良い人なのか悪い人なのか、しかし最後には正体を明らかにしてくれます、みんな薄々判っています。なんとなく続編の予感がするのですが、アメリカでの興行成績は振るっていない模様で残念。それにしてもウォシャウスキー兄弟作品でまたボンデージなイメージの登場です。そっちのご趣味があるんでしょうか。

読書 パンフレットは700円。印刷・久栄社。製本所・表記なし。デザイナー・川上圭三(川上デザイン室)。A4変中綴じ横左開き44ページ。シナリオ採録なし。真ん中のページはマッハ5号の型抜きになっているよ。マッハ6号が作れるペーパークラフト付きだよ。雑誌コードがついてバーコード読み取りレジ対応だよ。オモテ表紙(2P)、イントロダクション(2P)、ストーリー(2P)、登場人物相関図(2P)、いろいろレース紹介(2P)、用語解説(3P)、レーサーとマシン紹介(5P型抜き含む)、キャスト&スタッフプロフィール(6+1P)、プロダクション・ノート(3P)、ペーパークラフト(2P)、ギャラリー(5P)、レーシングドライバー土屋圭市インタビュー(2P)、映画ライター森直人テキスト(2P)、音楽ライター森本康治テキスト(1P)、監督バイオとポップ・カルチャー評論家(死語かよ)みのわあつおテキスト(2P)、クレジットとヨコハマタイヤ紹介とグッズ広告(2P)。さすがワーナー!公式サイトとパンフレットとのコンテンツの共用はほとんどありません。これが良心というものです。作りもワクワクするようなパンフですが、できれば600円の通常パンフ価格据え置いていただけると買い安かったかと。

シネマアートン下北沢、突然の閉館
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撃沈 インターネットをダラダラ見ていたところ、シネマアートン下北沢が閉館などという文字が飛び込んできた。特集上映の途中だったので何かの間違いだろうと思ったのだが事実らしい。前にも書いたがこじんまりとして落ち着いたいい劇場だったし邦画旧作を観られる劇場が少なくなっているから、このまま閉館するのは惜しい、とは思う。都内には他にない雰囲気の映画館だと思える。場所柄だろうか時間つぶし目的で入ってくる労務者もいなく狭い割りには快適だった。今回の件は母体である出版社アートンの社長が、別事業での薬事法違反で逮捕されたということでらしいが、以前より下北沢の再開発による立ち退きという問題を抱えていた。確か今年1月の頭で会員の募集も止めていておかしいなと思ったのだが、そうかいよいよ立ち退きの整理に入るのかとも勝手に考えていた。でも止めそうな気配もなかった。気になるのはアートンという出版社が既にアートン新社として始動していることで、これはもしや既定の路線だったんじゃないかと、アートン社内の造反だったんじゃないのかと。それでついでに出版にはほとんど関連しない社長の道楽を整理したのかと。そんな風に思えてならないのだがどうか。シネマアートンのスタッフはあずかり知らない社内闘争に巻き込まれた形なのではないかと。考えてみればこれまた意欲的な特集上映を行っているラピュタ阿佐ヶ谷だってふゅーじょんぷろだくとだし、まだ行った事はないが神保町にできた三百人劇場の後継、神保町シアター(ロシア&中国映画の全貌とかはやるのかな?)は小学館だそうだ。出版業界は多層的な不況だから余計なお世話なのかもしれないがついつい心配になってしまう。ユーロスペースの跡をそのまま利用しているシアターnのオーナー、大手出版取次ニッパンのようなメディア展開の一環とはまた訳が違うだろう。一部では再開の署名運動をしているようだが、前述のように再開発の件があるので困難であると思える。悲しいけれど情熱だけでは何もできない世の中だ。それどころか厚かましいと思われるかもしれない。出版だって生き残りに必死なのだ。この際、巨大なエンタメ系企業になられたレントラックさんに頼んでみますか?エスクァイアあたりが喜ぶかもよ。あっ、新文芸坐みたいにパチンコ屋さんにする?署名するなら映画館ファンドみたいなものを立ち上げるべきだという自己責任の時勢に生きているという認識を持ちたい。シネマ下北沢として開館したのが1998年、シネマアートンになったのが4年前の2004年だった。長いような短いような10年。2度目の復活はお金のある人に委ねられている(泣)。シネマヴェーラは是非がんばってね。受付の女性が若干一名少なくなってますが…。で、最後に言わせていただきます。

オレの5ポイント済スタンプカード(1回無料)はどないしてくれんねん!(号泣)


死に至る病 『潜水服は蝶の夢を見る』

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08年5月16日(金)分

ジュリアン・シュナーベル監督作品『潜水服は蝶の夢を見る』

07年 フランス・アメリカ。112分。カラー。ヴィスタ。配給 アスミック・エース 原題 LE SCAPHANDRE ET LE PAPILLON 字幕翻訳 松浦美奈 鑑賞状況 観客4名。個人的タイトル『看護婦(秘)日記 いたずらな眼差し』。

予告編


聞き耳を立てる この映画のTVコマーシャルで、自称映画評論家のおすぎさんが“この映画を観て感動しない人が1万人以上いたら、映画評論家を辞めます”と大きく出ていたので、1万人っていう人数設定に往生際の悪さを感じつつも、どこぞの掲示板の一部の投稿者の如くどーせいつもの“おすぎつき”なんだろ。営業じゃねーかこのカマヤロー!などと剥き出しの悪意を募らせ、ハッとして“いけないいけない、危うく理性を失うところだった、くわばらくわばら”と。こういう体験をしたわけですので鑑賞を躊躇していたのですが、いやしかし、この傲慢さが業界の悪しき体質、タダで映画を観ながら気楽に映画館の呼び込みなどと開き直るゴロツキの…いやいや、そんなこととは関係なくただ単純にスピルバーグ監督の『ミュンヘン』にもご出演され、このところ国際的な活躍をなされているマチュー・アマルリックさん(42)出演作なだけに観たいと思っていたというのが実勢であります。ジョニー・デップさんだったらおそらくスルーが懸念されます。映画と対峙するとき、“絶対に観るべき映画(英語だとチェケラ〜)”だとか“言葉に表せない感動”といったコピーを用意して、その映画を消耗品として切り捨てるなどということは僕にはとてもできません。そのような抽象的な言葉を多用する人を僕は信用していません。あっ、いけないいけない、危うく理性を失うところでした。で、“感動しませんでした”の投票はどこにすればいいんでしょうか?もう少し言わせてください。イメージが豊富であり解釈の仕方を如何様にもできるので感心したというのが、この映画に対する正直な気持ちであります。よくよく考えればこんな残酷な映画に、みなさんは感動を催すのでしょうか。借りてきた音楽に心を惑わされているんじゃないでしょうか。ちょっとコーヒーでも飲んで落ち着いてください。ホットコーヒー

三日月 映画が発明されて100年以上が経つわけですので、映画の有り様も多様化しています。異ジャンルからの参入もぞくぞく増えているようです。要するに映画の成立たせ方も変って来ているということです。この作品の監督ジュリアン・シュナーベルさんはむしろ美術畑の方のようですが、『バスキア』も『夜になるまえに』もなぜか観ていませんので(アスミック・エースとは全作品独占契約?)今回はじめましてということになります。そんな“よそ者”が映画を撮ろうとする場合、観客が留意しておかなくてはならないのが、作り手がテレビ番組・コマーシャル・ミュージッククリップといった映像作品と、映画との違いをどの程度認識しているかということでしょう。“よそ者”に作法の伝承は無いでしょう。それもいいかもしれない。しかしともするとアイキャッチーな映像の横行になりかねません。パッチワークのようにバラバラのものを繋ぎ合わせて核は見えてくるでしょうか。説明は無くても構わないのですが、脈絡も同時に廃棄しても構わないのでしょうか。それを映画とは関係なく完結している音楽で補完することは、許されるのでしょうか。熟慮したいと思います。

人影 申し訳ありません。冒頭から主人公目線であったのでどうしても『2001年宇宙の旅』の後半部分ということになってしまいます。要するにHAL9000コンピューター目線ということになります。『2001年〜』の中でHALの苦悩とは何か?それは実体がないということであります。ゆえに実体に対する嫉妬を感じるのは当然のことでしょう。幸福でない大金持ちと似ている気がします。肉体とは今いかなる扱いを受けているのか、それは『夜顔』のテキストでも少し言及しました。考えてみればキューブリック&スピルバーグ監督作品『A.I.』は、合理性を先行させたために自ら肉体を失った異星人が、実体(地球人)の模造体としてのロボットが見る母親(実体)への甘く儚い想いの再現を手助けし、合理では割り切れない過去への眼差し(或いは不可逆の時間の進行への抗い=不老不死への淡い願い)という知的運動に羨望するのでした(観てなくてよくここまで語れるわ〜)、この作品のマチューさんはどうでしょうか。当初は絶望していたようですがはっきりとは判りません。絶望することは止めたと言いいますが変っていないように伺えます。マチューさん自身のモノローグからすると、悲惨というより他人の善意を拠り所に、今の状況と気楽に付き合っているように感じられます。絶望の果ての境地でしょうか。失われたものへの執着といったものは見当たりません。もしかして出版本のためのコマーシャルフィルムなんじゃないだろうか、と思えてきました。

リサイクル マチューさんはキルケゴールのように若くして路上に倒れたため、不自由な身体になってしまうのですが、それは思索の果てではなくスノビッシュな生活から自己とその周辺を見つめ直す余生への転換であるようですがそれは描かれません。不幸でしょうか。それともパラダイムシフトでしょうか。潜水服を“牢に閉じ込められた”と捉えるよりむしろ、“羊水の中の胎児(=未来ある存在)”と捉えるとき、それは言葉を選ぶという擬似的オーラルセックス(女性たちの扇情的な顔のアップが繰り返される)によって促される母体への回帰願望(=振り出しに戻る!)と考えられ、エンドタイトルの氷河の崩落が巻き戻されて元通りになるシーンに納得がいく所存であります。

唖然 現在の恋人からマチューさんの元に電話が掛けられてきますが、当然自分では取ることができないわけで、休日ということもあり元内縁の妻が取るこことなります。そのシチュエーション自体も残酷なのですが、ここでその恋人より自分のアイデンティティーを確認させられるハメになります。彼女は宣告します。『動かないあなたは人間ではない、よって愛は終了します』。この時、自分の孤独をはっきりと自覚したのではないかと思われます。元内縁の妻は愛ゆえに電話を切ることとします。普通ですと理性を失うほどの怒りを覚えるところでしょうが、マチューさんは恋人に“愛している”と告げるのですがそれはけして額面通りじゃないでしょう。なぜそんなキリスト教的な隣人愛を持ち出したのか?神は死んだという認識の男(=虚無を克服しようとする者)による、みやげ物の聖母マリア像を買うと言って聞かなかった女(=偶像崇拝者)への当て付けではないでしょうか。実際は恋人との生活が続いていたらしいので、ここら辺は監督・脚本家のオリジナルという気がします。さあ自己を肯定する人間がここに誕生したのです(リヒャルト・シュトラウスの例の曲をかけて下さい)。

ニョロ 鑑賞中に脳内に渦巻いた作品の数々
 ・海岸で抱き合う二人→『流されて』リナ・ウェルトミューラー監督作品(74)
 ・縫合された瞼⇒縫合された性器→『海を見る』フランソワ・オゾン監督作品(97)
 ・体内から外を見る→『リトルショップ・オブ・ホラーズ』フランク・オズ監督作品(86) なお、体内映像は日本のピンク映画、特に痴漢物にて以前より実践されている。
 ・フォトセッション場面→『欲望』ミケランジェロ・アントニオーニ監督作品(68) また現実から幻想へのシフトというストーリー。
 ・駅のホームで踊る子供→『時計じかけのオレンジ』スタンリー・キューブリック監督作品(71) また拘束されかつ悲劇的装置として利用される主人公。医者たちから覗き込まれる視線。
 ・なす術なく海上に佇む⇒海岸に取り残されたピアノ→『ピアノ・レッスン』ジェーン・カンピオン監督作品(93) コミニュケーションの断絶と克服、欲望の発見
 ・すれ違う父親と息子の想い×2世代→『愛されるために、ここにいる』ステファヌ・ブリゼ監督作品(05)
 ・尊厳のための死、受け入れ難い生→『海を飛ぶ夢』アレハンドロ・アメナーバル監督作品(04)未見
 
テレビジョン 撮影はスティーヴン・スピルバーグ監督作品でも大活躍中のヤヌス・カミンスキーさん(48)です。前述の通り主人公目線が大半ですので、アップやバストショットが多いためスクリーン至近距離でのご鑑賞は疲れるのではないでしょうか。個人的にはヴィスタではなくシネスコでの画面設計で観たかったところです。海をもっと有効に使っていただけたら…と。それに監督の指示なのかヤヌスさんの意向なのか、手持ちのカメラグルグルとか何かやけにコマ落としとか着色とかのスタイリッシュ映像は、目が回りそうで嫌いです。ジジイになったからでしょうか? それから瞼の縫合とそれを内側から捉えた映像はどんな特撮なんでしょうか。すごいと思いました。もっともルイス・ブニュエル監督の『アンダルシアの犬』(29)の目玉を真っ二つの痛い痛いショッキング映像にはまだまだですが。

レンチというわけで『007シリーズ』新作にも出演されるらしいマチュー・アマルリックさん(42)主演の作品でしたが、彼のフィルモグラフィとして重要がどうか−演出・構成に問題があったとしても、提出されたテーマは今日的であると思われるため、やはり無視はできない作品と思いました…の反対なのだ。それに今回は身体障害患者という役でもあり、またひとつ演技の幅を広げたという印象もあります。ところで、シュナーベル監督がマチューさんを“発見”したと語っている、オリヴィエ・アサイヤス監督の『八月の終わり、九月の初め』(98)を改めて激しく観たいと思いました。正式に輸入していただけないでしょうか。フランス映画社は長く開店休業だし、シネマパリジャンもいつのまにかワイズポリシーだし、巴里映画はどうだ、プレノン・アッシュはどうだ。動機はいつも経済であり、作品に惚れ込んで買付けができる人材はいなくなって、フランス映画の配給は前途多難です。バブルは良かったなぁ、ホイチョイ。

読書 パンフレットは700円。印刷・北斗社。製本所・表記なし。デザイナー・鈴木成一デザイン事務所。CINEMA RISE 癸隠牽院B5中綴じ縦左開き36ページ。シナリオ採録なし。イントロダクション、監督の言葉とインタビュー、カンヌ映画祭記者会見は全文オフィシャルサイトで無料で読むことができる。スタッフ・キャストもほとんど同じテキスト(一部割愛あり)を無料で読むことができる。ストーリーのテキストはサイトのものとは異なる。要するにパンフレットは映画評論家(今野雄二)、映画ライター(平井伊都子)、原作本の翻訳者(河野万里子)、音楽ジャーナリスト(伊藤なつみ)のテキストのために買うようなものである。というわけで適正価格は300円てとこで。作品にインスパイアされたお料理コーナーは、確かにおしゃれなんだろうけれど、予算をつけるならシナリオ採録の方を是非!


ハイ、本ができましたよ。うーん、やっぱDIC158にしてくれ。今からは無理…。

資料関係



1.チラシオモテ 2.チラシウラ 3.パンフオモテ 4.パンフウラ

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今年のフランス映画祭をやり過ごす
フランス映画祭2008
 
  
去年も行けなかったフランス映画祭ですが 今年もやっぱり行けませんでした。配給の決まっていない作品は観たかったので残念です。映画好きにとっての映画祭の醍醐味とはそういうものでしょう。今後の特殊上映に期待します。今回、何よりも驚いたことは夕方スタートというスケジュールだったんですが、どういう意図なのかよく判らないです。21時上映スタートなんて排他的だと思います。これで主催のユニ・フランスが映画を肴にフランス本国からスターを呼んでただ騒ぎたいという目的が明確になったと思います。要するにスノビッシュだということです。これならまだ“日本に於けるそちらさんの年”を手始めに、イタリア映画祭やドイツ映画祭を常態化させて“映画祭商売”づいている朝日新聞とフランス大使館を巻き込んでやったほうがまだまともに開催されるんじゃないでしょうか。実際、“アニエス・ベーは映画が大好き”は結構集客してましたし。入りすぎたゴダールの『はなればなれに』の時は渋谷系なヤツラに心の中でアッカン・ベーしてましたが…。それに有楽町朝日ホールは映画上映には不適当なので勘弁して欲しいです。横浜時代が懐かしいなんて方もおられるようですが、あの頃から独特の雰囲気(やる気があるのかないのか判らない)があって以前書いたかも知れませんが、アンケートに答えると、本日上映作品のチケットをプレゼントなんてことをやっていて、予定を決めて自腹でチケットを購入している者としては腹立たしく抗議したことがあります。チケットと言えば配給が決まっている作品が多くなればロードショー料金とほとんど変らなくなるでしょう。これも嫌なんですよね。ゲストを減らしても1000〜1200円くらいが適当かと。おまけに会場のパシフィコ横浜のホールは上映中でも横の出入り口から客は次から次へと入ってきてスクリーンを見えなくするし、有楽町朝日ホールと同じくらい映画には不向きだと個人的には思っています。ですから映画館開催になったこと自体は良いと思いますが。さて今回はメイン企画よりももしかして重要かもしれないサブ企画として、新作『ランジェ公爵夫人』公開連動の『ジャック・リヴェット・レトロスペクティヴ』があります。ありがたいことに日本での通常上映、特集上映作品はほとんど観ているので(あらためて判ったんですが、結構輸入されてるんですね)ユーロスペースは関係なかったのですが、日仏学院での未公開作品は字幕がなく、せっかくの企画なのに何故?とこれも首を傾げます。いままでの日仏学院経験からすると狭いし、同時通訳は拙いので止めにしておきます。いや、自宅に軟禁(うそ)されているので出かけられないんでした。4月7日は家で号泣していると思います。お出かけになる方がうらやましい。ジャック・リヴェットを観るものに永遠の呪いあれ(笑)。