妥協せざる人々

映画館に観にいった映画についての感想文。

ドグマ・不純の誓い
―于颪辰娠撚茲亡脅佞靴燭
⊂暖饉圓箸靴討領場を明確にするぞ
1撚茣嫋泙竜_颪浪真佑砲睚薪であれ
け撚茲呂燭世修譴世韻農斬なんて持ち込むな
ケ撚茲乏壁佞韻鷲要ない
ι埔鰺な文章で失笑を買え
他人の価値観からの脱却を図れ
╋欧覿欧訖様佑竜せちを逆撫でてみろ
ナンバー・ワンではなく、ロンリー・ワンを目指せ(泣)
“映画好き”を自称しつつそれを貶める人間に憧れろ(号泣)


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お詫び
ただいま、個人的な理由により映画鑑賞が困難となっております。テレビ放送、あるいはビデオグラムなどでは鑑賞しておりますが、映画フィルムと劇場スクリーンがあってはじめて映画鑑賞が完成するという考えの下、当ブログのテキストは、劇場での鑑賞作品の感想に拘らせていただきたいかと存じます。暫しお待ちいただければ幸いです。
お知らせ
おかげ様をもちまして“未公開または書きかけ”のテキストが100を越えました。観たこと自体忘れている作品も少なくありません…。こんな僕を許してください。
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イングロリアス・バスターズの続き
 
JUGEMテーマ:映画

 テキストはこちらです。→12月17日
 
公開資料

チ ラシ2種(右は二つ折り)
 


新聞広告(L→Rいずれも夕刊、朝日11月6日全面、朝日11月12日、朝日11月20日・毎日・読売共通絵柄11月20日※20日は朝日のみ下方に東宝の音符 マーク入り、読売12月22日)    宣伝担当者は朝日購読者をターゲットにしているようです。
男たちの奇妙な友情  悒侫蹈好函潺縫ソン』
JUGEMテーマ:映画


  .蹈鵝Ε魯錙璽百篤頂酩福悒侫蹈好函潺縫ソン』

08年/アメリカ/122分/カラー 配給:東宝東和 原題: “FROST/NIXОN” 字幕翻訳:松岡葉子 個人的タイトル『ローファー×ローファー』

予告編 (THE WHOの『ババ・オライリィ』って本編に出てきたかな?)


 ウォーターゲート事件の頃って私はまだ小学生でしたし、何があったのかなんて理解できるはずもないのですが、アメリカのふたりのおじさん―ニクソンとキッシンジャーの顔はよくテレビで見かけていました。それから数年経ったある日、私は友達と映画を観に行きました。それはニクソン大統領が、前代未聞の任期途中の辞任をした74年に本国アメリカで公開されていたものの、その内容ゆえ(?)に日本には輸入されなかったのですが、一連のSF映画ブームを当て込んで思い出したように配給されたものです。つまりハーワード・ジームとマイケル・ベンベニステ監督による『フレッシュ・ゴードン』であります。前者が特撮を、後者がエロシーンを演出、ということなんですかね。なぜいつもは父親に同伴してもらう映画鑑賞を、自分のおこづかいから入場料を払わなければならないというリスクを犯してまで、今回は友達とだけで行ったのか?それは「EIGA NO TOMO」(エロ雑誌)でジョイパック・フィルムが洋ピン配給会社だと知っていたからです。なんかあるぞと。どーゆう小学生だ?案の定、タイトルからボカシが入りましたよね。そんなことはともかく、その映画に出てくる怪獣の顔を見て私はすぐに判りました。これはあの時見たアメリカのおじさんを真似しているんだな、と。あのニクソンとかいうチンポコ野郎なんだなと。ナイス解釈、ヒデキ、カ〜ンゲキッ!(なんやねん)



 ロン・ハワード監督作品…申し訳ありませんでした。『スプラッシュ』(84)しか観てませんでした。陳謝して発表発送に替えさせていただきます。『アポロ13』くらいは観ていても良さそうなのに残念です。ついでに言うと『天使と悪魔』も観る気ありません。重ね重ね申し訳ありません。で、肝心の本作なんですが、内容的には落ち目のイギリス人お笑い系司会者が、現状を打開するべく&アメリカ進出への足がかりとするべく、水門事件で引退状態にあったものの政界復帰を目論むニクソンとインタビューを熱烈慣行し、お互いギブ&テイクでハッピーにしたかったものの、アララ残念無念という感じなんでしょうか。一瞬の映像が大衆に訴えかける影響力というものなのでしょうか。でもなんか割り切れない…。いきなり始まってふたりの人物設計は最後まで浅はかなもので終わってしまう感じ。説明するまでもないよね、みたいな雰囲気。周りにいる連中も誰が何なのかよく判らない。まして飛行機内でナンパなんていうエピソードは要るのか、とか。大した役でもないケビン・ベーコンも、よく映画のオファーにOKしたよな、とか。映画撮って金に困っていたのか?そんなどーでもいいことを考えもしました。時間の扱いがふらついていて、77年の話なのに大統領在任中みたいで、このインタビューが辞任への引導を渡したかのような印象さえ持つ。三大ネットワークの態度も、政界を追われた人物の評価替え(政界復帰)を危惧していたとはいえ、あまりにも通り一遍のようだ。テレビの前の大衆の描写も大した事はない。このよそよそしい伝聞口調の演技は演劇由来なのか。もしや、メディアの寵児と元権力者の対決という東宝東和の売り方が間違っているのではないか。私はそう思うようになっていました。原題は×じゃないんですよねスラッシュだ。正反対の性格?そーかなぁ、私にはフロスト≒ニクソンに思えます。ロン・ハワード監督はここらで、演劇で一定評価のある、つまり安全パイな事実に沿った政治劇をフィルモグラフィーに入れることによって、単なるエンタメ系ディレクターからの脱出を図かろうと目論んでいるのでしょうか。のっぴきならないふたりの男の野望と挫折、その原動力はいったい何だ?女か金か。釈然としない。男と男の真剣勝負だなんてとてもじゃないが言えないんじゃないか。どう見ても共倒れの悲惨な戦いでしょ、これ。尾を引く後味の悪さでしょ。

 しかし、このニクソンって人は、身の回りにあまり注意を払わなかったようですね。この間もムービー・プラスで観逃したマイケル・ムーア監督の『シッコ』を観ていたら、医療保険に対する会話の盗聴テープが紹介されたりしてますよね。もしかして聴かれることを前提に話してる?谷崎潤一郎の『鍵』じゃねぇっつーの。ここでの会話の内容とは、「この制度は保険業界丸儲けの集金構造ですよ」「相互扶助なんていうものは微塵もないですよ」との側近の報告に対して、当初興味の無かったニクソンは「悪くない」と言う。(それにしても病気を認定しないことが保険医の評価につながるという現実は、成果主義なんて所詮運用次第でどうにでもなるという、コンプライアンスなんて名ばかりのモラルなき恐怖を表しているでしょう、アメリカという先行する生きた歴史の勉強ができるはずの日本はいったい何をやってるんだ?)ここら辺にニクソンの育ちが出るわけだ。もしかすると保険業界からの莫大な政治献金を期待していたのかもしれない。本編ではインタビューの途中の深夜に、ニクソンがフロストに電話をかけるという件があるでしょう。そこでニクソンは、フロストに「オックスフォード出身か」と質問するとフロストは、「ケンブリッジだ」と答える。どちらも名門大学と評判ですね。なんでそんなことを言うのか、どういう意味なのか。敵か味方か探っているのか?続いてニクソンは、「世の中にはどうにもならない支配層というものがあって、こいつらが人を小馬鹿にするんだ、お前もいじめられただろ」とかなんとか泣き言を言うわけですけど、いかにもたたき上げのニクソンらしい本音発言じゃないですかね。話の意図とはもしかするとここにあるのかな、なんて思いました。実際には無かった創作の出来事をわざわざ挿入したりするのは、何かメッセージがあるはずでしょう。アンタッチャブルな絶対権力層=エスタブリッシュメントとはどこにどれくらいいるのか?政治が変わっても不変である何か。ニクソンが見た地獄は、アメリカン・ドリームとは裏腹の、どうあがいても、どう所有しても無産階級から抜け出せない悲しさ(スタンリー・キューブック監督『バリー・リンドン』(75)、大滝詠一『びんぼう』(72))。現代ではもはや聖なる血統への系図の書き換えは成功しない。数多の欲望を整理するための学歴排他社会はやっぱり「悪くない」のか?そんな中、われ関せず粛々と世界全体をおまんまのタネにと目論むグーグルの商売は、あらゆる財産に対して一方的に“チェンジ”なのかもしれず注意が必要なのかもよ。

 それに気になったのは、ニクソンがフロストの靴に興味を持ち、側近に“あんなの女っぽくないか”なんて聞くシーンでした。紐の無い靴なんてなんかおかしいよと。この時代あたりからフェミニズム運動は、より私的な環境まで踏み込んで開放を訴え始めるわけで、それに伴って輝ける男の伝説といった類のストーリーが、成立しなくなりつつあるという歴史認識のようにも受け取れます。と言うか反作用としての男性自身の解放。このインタビューを行ったことで、このふたりのイカロスは社会的なリスクを負いながらも、家庭人として救われたのかもしれません。残された、人としての道。ニクソンがフロストに耳打ちした“あの女を嫁にしろ”とはどういうメッセージだったのでしょうか。

読書 パンフレットは600円。印刷/成旺印刷。製本所/表記なし。デザイナー/KK DESIGN。B5中綴じ縦左開き表紙込み32ページ。シナリオ採録なし。表紙4P(表2は写真、表3は『路上のソリスト』広告)、写真のみページ計6P、イントロダクション1P、ストーリー2P、マイケル・シーン・プロフィール&インタビュー1P、キャスト・プロフィール(4名)1P、(2名)1P、フランク・ランジェラ・プロフィール&インタビュー1P、佐藤友紀(フリーライター)テキスト2P、リチャード・ニクソン人物紹介1P、田久保忠衛(外交評論家)テキスト2P、町山智浩(アメリカ事情通映画評論家)テキスト2P、ロン・ハワード監督プロフィール&インタビュー1P、逢坂巌(東大出身立大助教)テキスト2P、ピーター・モーガン(原作脚本&製作総指揮)プロフィール&インタビュー1P、デビッド・フロスト・プロフィール&インタビュー1P、プロダクションノート2P、スタッフ(9名)プロフィール1P、クレジットと奥付1P。本パンフレットは左開き(横書き)だが、テキストの一部は縦書き(右から左進行)であり非常に読みづらい。外注組版か?コンテンツのウェブとの共用の弊害か? 公式サイトとの比較 ストーリーはほとんど同じテキスト、8名のキャスト・プロフィールはまったく同じテキスト、11名のスタッフ・プロフィールもほとんど同じテキスト、プロダクションノートは異なるテキスト、ピーター・モーガンとデビッド・フロストのインタビューは同じテキスト。無料で読めるのでパンフは400円程度でお願いします。



公開資料

チラシ


新聞広告(L→R:朝日3月27日、読売5月1日)

              




 サントラ盤はジェネオンのランブリング・レコーズから発売です。14曲43分。担当はかつてハンス・ジンマーとして紹介されたこともあるハンス・ジマーさん。
恋愛は経済活動か 『8月の終わり、9月の初め』
JUGEMテーマ:映画 

々澳康男監督作品『非行少女ヨーコ』
    →5月16日付

△△た森魚監督作品『僕は天使ぢゃないよ』
    →5月17日付

オリヴィエ・アサイヤス監督作品『8月の終わり、9月の初め』

98年/フランス/112分/カラー 配給:特殊上映 原題:FIN AOUT.DEBUT SEPTEMBRE 字幕翻訳:丸山垂穂 鑑賞状況:満席 個人的タイトル『告白的主体論序説』



私がオリヴィエ・アサイヤス監督作品を始めて観たのは、93年11月にシネ・ヴィヴァン六本木に於ける『パリ・セヴェイユ』(91)のことでした。その時の表記はアサヤスでしたよね。当時はオリヴィエ・アサイヤス作品というより、やはりシネ・ヴィヴァン六本木で89年にロードショーされたピエール・ブートロン監督作品『サンドイッチの年』(87)に主演したトマ・ラングマンの出演作という認識だったと思います。93年は春にも彼出演のジャック・ドワイヨン監督作品『愛されすぎて』(92)が公開されてますし。その後、今回字幕なしで上映される『イルマ・ヴェップ』(95)も確かシネセゾン渋谷でロードショーされましたけれどそれは観ませんでした。この時もまだアサヤス表記だったんです。両作とも配給は、今はなき日本ヘラルドで幸先の良い日本紹介ではありました。私の中でオリヴィエ・アサイヤス監督が決定的な存在になるのは、98年5月に開催された「アニエスb.は映画が大好き」で上映された『冷たい水』(94)からのことです。有楽町朝日ホールがスノッブで一杯になった(個人的感想です…)、ゴダール監督作品『はなればなれに』より重要だったと言い切ることができます。同年シネセゾンは解散し、翌年末にシネ・ヴィヴァン六本木は再開発のために建物ごと無くなりますから、エリック・ロメール監督のように常連になることはありませんでした。アサイヤス監督の作風から言って、それは受け皿が無くなる以上、作品の日本配給公開が非常に困難になることを意味しているでしょう。時代が変っていなければ、飯田橋駅から何もない通りを歩いて、蒸し暑さの中あまり現像が良いとは言えないフィルムを観ることもなかったのかもしれません。さて、この『8月の終わり、9月の始め』ですが、これは確かいつかのカイエ週間で上映されたんだと思いましたが忘れました。その時は果たせず10年近く鑑賞の機会を待っていたことになります。自然と期待は高まります。

 劇中、ヨーゼフ・ボイスの絵画を、作家エイドリアンの死後若い恋人に遺産として譲るという件がある。それはこの映画の重要なヒントのようだ。私の中には、イヴ・クラインとヨーゼフ・ボイス、このふたりのアーティストは、いつも心のどこかに引っかかっている。簡単に言うとマルセル・デュシャンが種を蒔いた、芸術に於ける価値そのものの価値を問う姿勢があったから、あるいはあらゆる事物・事象が貨幣価値に還元される時生じる疎外感へのまなざしがあるから。要するに主体のありかはどこかということだ。逆転させると権力の真実の民主化を見据えている。今はまだ自由を謳歌しているようで実は手のひらで遊ばれている“おいしい生活”。ヨーゼフ・ボイスの芸術は取っつきにくいが、それは彼の意思表明であるとともに言語そのものでもあるからだ。主体的であることを誰にも引き渡さないということなのだろう。特にヨーゼフ・ボイスは、政治的イデオロギーより経済セオリーの方がより強力で、欲望に忠実だから世界を覆いつくす脅威であることを理解していたのだと思える。まして宗教はもはや形骸化して諍いの火種だ。誰も逃れられないその中で“わたし”はどう生きるのか?という問い。世界は総客体であったという世界同時不況は判っていた事なのだ。そして“影響”と名付けられた病の蔓延は暗示的だ。政治や経済への関心は、それが個人への抑圧装置だからに他ならない。抑圧装置は画一的であることを強要する。いや強要するのではない、慣れさせるのだ。麻薬のように疲弊させるのだ。この映画の中では、経済にかかわる出来事が二つ出てくる。ひとつはガブリエルとジェニーが恋愛(結婚生活?)を解消するために愛の巣であったアパルトマン を他人に売却し、借金返済の当てにしようとしているまさに“金の切れ目が縁の切れ目”といったシークエンス、もうひとつはガブリエルの友人であるエイドリアン が、旧作小説が売れないとガブリエルに嘆いているシークエンスだ。ともに冒頭で提示されている。これはわたしたちが日常、他人の言語で生活していることの現状確認だった。作家エイドリアンの創作とは、そこからの脱出の思索だったのかもしれない。しかし洗脳された経済原理主義者にその言葉は届かない。ひとつの事例を引いてみたい。村上隆への不快感は、あらかじめ跪いた上で、宮廷絵師の真似事をやっていたことにある。顧客は金持ちの田舎紳士、あるいはブランドという名の奇形コレクター。世界戦略とは、自分の客体さの認知運動だ。要するに王様に褒められたい家来の自己確認。日本人は村上のアートが剽窃であることが判っていて黙認した。同時不況後の彼の発言は、あきれるほど他人事で自己肯定甚だしいが、客体としてその場にいた“主犯”なのだと思える。おそらくこの茶番は、忘れられるか徒花という末席しか与えられないだろう。ボイスが生きていたらこの馬鹿騒ぎをどう見たのか。案外面白がったのかもしれない。当然、それはニッポンビジネスマンへの嘲笑の系譜として。

 個人や法人が投資した資金は、リスク回避の名目で分散される、それは同時にその資金に付帯していたはずの欲望を粉砕して本質を判らなくする。マネー・ロンダリングとはそういった類のものだろう。これを踏まえて日常生活を捉えてみるとどうなるのか。当初のガブリエルは、恋愛において客体であった。それは肉体関係(共通言語)から始まったとも言えそうだ。仕事は編集者だが、心の中では実作を行いたいとは思っている。でもそれができないのは、体質が客体だからであって実作は主体的でなくては作り出せない。文字に触れながらも忸怩たる想いだけが募る。出来たように見えるものは、寄せ集め(編集)られた剽窃であるだろう。客体は寄せ集まって無為なおしゃべりをするしかない。アパルトマンの売却は、ふたりの愛の歴史の廃棄を目論んでいるのだが、うまくすすまない。会うとまた愛し合ってしまう。そこに人間性(主体)というものが浮かび上がってくる。一方人間は、付帯している付加価値に過剰な評価を与えると、恋愛がインフレを起こし実態が見えなくなる。ストーリーは語れても構造は語れなくなる。しかもストーリーは使い古されたものだから無意味この上ない。『余命1ヵ月の花嫁』とは、恋愛関係に於けるインフレーションを観せられているとも言える。ここでの付加価値は一方の死であることは言うまでもない。実に魅惑的で麻薬的だ。カウントダウン・トゥ・エクスタシーだ(何のこっちゃ)。しかし男と女の人間関係の何が判ったというのか。カルマは見えない。でも商品としての映画は顧客満足的だ。これに対してガブリエルの日常は、ふたりの女の間でデフレ基調が続いていた。実作を志して編集者を辞するものの、取って代わった場所は政治家の文章代筆に過ぎない。そんなある日、ガブリエルは写真でしか知らない亡きエイドリアンの若い恋人を発見する。それは彼女が自ら選択した人生の中で、生き生きと輝いている風景だった。反動的な態度は微塵もない。過去への未練もない。その時、ガブリエルは主体として生きることのすばらしさを認知するのだ。ヒエラルキーに拠らない何かを掴むのだ。このように世の逆相を捉えるところに、オリヴィエ・アサイヤスという表現者の真骨頂があり、私の心を掴んで離さない。『パリ・セヴェイユ』にも父親の若い愛人という設定がある。世代間の時間の継承とは、アサイヤスにとってどれほど重要なことなのだろう。

 今回のアサイヤス特集のために作られた三つ折チラシを確認したい。アサイヤスの著書の一部が引用されている。それはそのままボイスが言った“社会彫刻”という概念を説明しているように思えてならない。ボイスは生きていること自体がアートであるという。誰もが何らかの形で社会参加を目指す世界。それが権力集中というリスクから回避するための市民の唯一の手段なのだろうか。

 ガブリエル役のマチュー・アマルリックとジェニー役のジャンヌ・バリバールのふたりは、どうしてもアルノー・デプレシャン作品を思い出してしまう。アンヌ役のヴィルジニー・ルドワイヤンはやはりシネ・ヴィヴァン六本木でロードショーされた、ブノワ・ジャコ監督作品『シングル・ガール』(95)の孤独な少女が印象的だった。そこでのルドワイヤンの役は、ホテルのルームサービスの少女だが、ホテルのテレビで放送されていたのは『ハクション大魔王』だったな、なんてくだらないことを思い出した。撮影はアサイヤス組と呼んでいいドニ・ルノワールさん。都合描写を一切排除したリュック・バルニエの編集も刺激的だった。

公開資料

チラシ



ミスター・モンシェリーを探して  悒屮蹇璽ン・イングリッシュ』
JUGEMテーマ:映画


.哨ぁΕサヴェテス監督作品『ブロークン・イングリッシュ』

07年/アメリカ/98分/カラー 配給:ファントム・フィルム 原題: BROKEN ENGLISH 字幕翻訳:松浦美奈(だから絶対字幕の新女王だって) 個人的タイトル『愛しのカタコト英語』

予告編


【最初に書いたバージョン】

  日本においてジョン・カサヴェテス監督とその作品に対する評価が確立されたのは、『ラヴ・ストリームス』(シネセゾン渋谷)がシネセゾンによって配給されて1年と数ヶ月後に迎える彼の死後、約一年かけて作られたまだ扶桑社から発売されていた書籍扱い定期刊行誌Switchの別冊『映画監督ジョン・カサヴェテス監督特集』と連動したかのようなシネマトリックス配給『オープニング・ナイト』(ル・シネマ)の上映だったんじゃないでしょうか。特にSwitchのテキストは、ことさらに感傷的で喪失感ともなう肌触りであり、この人物を神格化させるには充分でした。そのまた2年後、シネセゾンと東北新社によってそれまで未配給だった3本を含む『カサヴェテス・コレクション』(シネセゾン渋谷などセゾン系3館)と題した特集上映が組まれてそれは決定的となるわけでした。今では“インディペンデント映画の父”ということになっています。おそらくそれは海外での評価替えの追認という性格が強いものなんでしょう。息子のニックはピーター・ボクダノビッチ監督作品『マスク』で、主役の青年を演じたあと監督の道を歩み始め、堅実な作品を製作し続ける中堅になっています。そして今度はジョンの次女となるゾイ・カサヴェテスの登場と相成るわけだ(長女も作品を発表しているらしいが…)。“ゾイ”と聞いて思い起こされるのはマーティン・スコセッシ、ウディ・アレンそしてフランシス・コッポラという三人の監督による89年のオムニバス映画『ニューヨーク・ストーリー』のコッポラ篇「ゾイのいない生活」です。この作品には娘のソフィア・コッポラも参加しているのですが、私はこの作品が彼女の最初期の演出作品なんじゃないかと勝手に思っています。もしかすると“パパの名義なんだけどお前やってみなさい”なんて言われているかもしれません。『ヴァージン・スーサイズ』にすんなり繋がる感じなんです。なぜこんなことを言ったのか、それは今回の日本配給上映に際してゾイ・カサヴェテス監督の売り出し文句が“第2のソフィア・コッポラ”となっているからです。パパ・コッポラは世界的に有名で実績も残している人ですが、パパ・カサヴェテスは知る人ぞ知る、日本だってちょっと前までニューヨークの路上でメジャーの力を借りずに映画を、しかも今まで取り上げられなかったパーソナルな問題を扱った映画(『アメリカの影』)を作った俳優の人という程度の認知が、しかも一部の人たちだけのものだったはずなんでしょうから、ここには雲泥の差があるという認識だけは持っていたほうが良いのではないか、という事です。つまりゾイ・カサヴェテス監督がフィルモグラフィーを作り上げていくには“第1の人”より相当な困難が待っていそうだということです。ローマン・コッポラさんでさえ1本撮った後はむしろミュージック・クリップやウェス・アンダーソン監督のセカンド・ユニットをやっているくらいですから大変です。今回はご祝儀ということでしょうか、親友であるソフィアさんの口利きでしょうか、配給のファントム・フィルムが製作にも参加しているようです。冒頭からジョン・カサヴェテス監督をきっかけに話を始めましたが、本当のことを言うと父親が誰であろうと親友が誰であろうと、一本の映画を鑑賞する者にとってそんな情報は何の保障になるはずもない。それをよりにもよって最初の日本公開作品に当たって“第2のソフィア・コッポラ”なんてイロをつけるような言い方って随分じゃないかと憤っています。売れればそれで良いのか?本質より雰囲気優先なのか?ガーリーってナンなんだ。女はそんなに簡単にカテゴライズできるのか。“アラフォー”などと言われながら水子供養ならぬ“自己供養”することで状況を正当化しようとする時節到来なのか。だけどそれは世間に蔓延る“スタンダード”なんて根拠の無いものであって、背後には必ず商売のニオイがするものでしょう。あわわ、また横道に逸れてしまいました。ゾイさんはソフィアさんのエピゴーネンなんかじゃないでしょう。先入観を押し付けるやり方は止めて欲しい。今、考えてみればジョン・カサヴェテス監督の埋もれた作品との出会いだって、前述の通りけして幸福なものではありませんでした。それは映画鑑賞自体が儀式化されて肝心の作品は蔑ろにされるリスクを伴っているということです。映画を観ることはお祭りなんかじゃない。この際監督本人でさえどうでもいい、しかし作品には敬意を払って欲しいと考えます。なおタイトルはマリアンヌ・フェイスフル79年のアイランド盤から。

【無関係と言いながら父親の話題からテキストを始める矛盾を意識してなるべく作品に特化しようと試みたものの失敗し放棄したバージョン】
 30年前のリチャード・ブルックス監督作品『ミスター・グッドバーを探して』や翌年のマーヴィン・チョムスキー監督作品『さよならミス・ワイコフ』などに描かれた女性といったものはどのようなものだったのでしょうか。あの頃に比べれば随分と女性の性生活も、安全に気軽に社会的に受け入れられるものになってきたということなんでしょうか。ここにはシリアスな切羽詰った焦りのようなものは見受けられません。むしろコメディ調の、あるいは自虐的な感じすらします。男性の悪意は女性のそれと相殺されると予め認識している印象さえ持ちます。いや、これが現代の切羽の詰り方というものなのかもしれません。笑いながら泣く…。でも自己責任と言えば聞こえは良いのかもしれませんが、この若い女性に与えられた自由が、実は“北風と太陽”を応用した男性たちの“女体ゲット陽動作戦”だったとしたらどうしましょうか?狼には気をつけてちょぶだい。そんなことはともかく、ゾイさんはパンフレットのインタビュー で父親の『オープニング・ナイト』(やっぱり30年前)が好きだと語っていますが、そこには若いとは言われなくなった女性の、孤独に埋もれていきそうな時間と希望が刻まれていました。演じる女性が、蔑ろにしてきた演技ではない実人生へのまなざし、気づかなかった愛といったものがあったように思います。冒頭に友人のおのろけパーティ・シーンを持ってきて、しかもピーター・ボクダノビッチ監督が出演しているところをみれば、充分にその映画を意識して引き継ごうとしているだろうことは判ります。パパもママも大好きなんだな。それに恋に落ちるフランス青年は、『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモントさんを思い起こさせます。女の立場でストーリーを成立させる魂胆でしょうか。思い起こさせると言えばやり逃げする三流ロック勘違い野郎も、モヒカンな感じが『タクシー・ドライバー』(76)のロバート・デニーロさんそっくりですね。『タクシー・ドライバー』って、シビル・シェパード(ボクダノビッチ監督作品『ラスト・ショー』(71)のヒロイン)に注目すると、選挙を手伝っているハイソで偽善的な上昇志向女が、ひとりのイエロー・キャブ・ドライバーを通じて、現実社会を見ることの個人的限界(例えばジョディ・フォスターの売春婦には絶対に出会えない)を知るといったストーリー、社会階層の発見でした。この映画の主人公は、社会の何と対峙しているでしょう。それは冒頭のホテル応対シーンで描かれているかもしれません。  【中絶

 撮影はジョン・ピロッツィさん。ミュージックビデオなどで活躍されている方のようです。ひとつ気になったのは特にロケ撮影で顕著な色彩の滲み・ブレでした。チラシでもよく判ると思います。撮影がフィルムなのかデジタルビデオなのかははっきりしません。意図的に施されたものなのでしょうか。確かに夢の中という感じではありますが。

パンフレットは700円。GARDEN CINEMA EXPRESS・通し番号なし/印刷・多田印刷/製本所・記載なし/デザイン・大寿美デザイン/編集・記載なし。A4中綴じ左開き(横組み)表紙込み24P。表紙4P(表2は写真、表3はクレジット)、写真9P、イントロダクション1P、ストーリー1P、キャスト・プロフィール7名2P、スタッフ・プロフィール5名1P、プロダクション・ノート2P、林文浩(雑誌編集長)テキスト1P、立田敦子(映画ライター)テキスト1P、ゾイ・カサヴェテスとジーナ・ローランズのトーク1P、広告(VIS)1P。細かいようですが600円でお願いします。




公開資料

チラシ



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 ざんねーん、サントラの国内盤は発売されていないようです。でもこのジャケットいい感じ。
女の愛情、男の捏造  悒船Д鵐献螢鵐亜
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.リント・イーストウッド監督作品『チェンジリング』


08年/アメリカ/142分/カラー 配給:東宝東和 原題: CHANGELING 字幕翻訳:松浦美奈(もはや字幕の新女王やね) 鑑賞状況:6人 個人的タイトル『ジ・アグリー・アンダーニース』

予告編


06年の『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』に続くクリント・イーストウッド監督の新公開作です。でも次作『グラン・トリノ』も既に完成しているようです。すごいな、老いて益々精力的ですね。私は件の2本は見逃してしまいました。ですから『ミリオンダラー・ベイビー』以来ということになります。主演は09年3月現在ブラピのパートナーであるアンジェリーナ・ジョリーさん。出演作は『スカイキャプテン』だけしか観ていないと思うんですが、顔の造作からするとどちらかというと苦手なタイプです。余計なお世話ですがノーメイクの方が良いのではないかと、特に厚いくちびる(ここまでくると露悪的な…)が際立つ濃い口紅はどうかなと。でもここでは当時の職業婦人をみごとに演じているようです。突然ひとり息子が自宅から失踪、しばらくしてやっと戻ってきたのは他人だった。サスペンスなんでしょうか?

 常々思っているので別のブログでも書いたことなのですが、警察や自衛隊などといった存在は(表向きは)治安維持目的の暴力装置であって道徳などではない、これが私の基本的な考え方です。そこに正義の判断を求めようとしても“民事不介入”などとにべもなく言われたりします。でも私たちには彼らが考える正義を要求したりします。不透明で時に日常と乖離している正義。これはよく言われるとおり、疾病治癒あるいは進行遅延・鎮痛目的に使用される毒を薬と呼ぶこととまったく同じでしょう。だから副作用もある。あるいはハサミも凶器になるのだということです。この映画は母親の息子への愛というカタチを借りてあってはならない副作用を扱った映画のように思われます。それにアメリカに於ける自立女性の戦前の困難状況を扱ってもいるように思います。夫婦が当事者だった場合このような精神病院への強制収容などということにはなっていなかったでしょう。つまり女性の自立への妬み嫉みがあったこと、十分に男尊女卑の時代であったことの確認をしているようです。この映画でもジョリーさん同様まともなのに精神病院へ強制収用された女性(エイミー・ライアンさん)との交流が出てきます。患者はほとんど女性でした。精神病院が実態として警察に不服従な女性への、裁判を経なくてもできる懲罰の場所となっている、私刑の場所となっている。拷問は治療と名付けられているのです。この絶望とどう対峙すれば良いと言うのでしょうか。イーストウッド監督はアメリカの負の歴史・精神史を語っているのでしょうか。

 この映画のことをボンヤリ考えている時、昔このような警察に対する戦慄を覚えた事件があったことを思い出しました。88年に堺市であったいわゆる「警察官ネコババ事件」です。普通の主婦が家業の店先で拾った現金を善意で交番に届けたものの、受け取った巡査がネコババを働き逆にその主婦(しかも身重だった)を署内総出で犯人にでっち上げていったという身の毛もよだつ事件でした。ネコババを隠蔽しようとした訳です。逮捕までしようとしましたが、かかりつけの産科医の猛反対で実現しなかった。これは事件解決前からワイドショーなどでも大いに取り上げられました。嘘つきは警察の始まりだと思いましたよね。そして恐ろしくなった。権力が暴走し全てを否定される恐怖。現在でも警察の不祥事は後を絶ちません。なぜこのような事例を一括管理分析して警察全体として共有しないのか。縦割りだからか?各地方自治体の警察で同じことが同じだけ繰り返されていくようです。

 この映画を語るとき絶対に落としてはならないのが、ジョン・マルコヴィッチさん演ずる牧師でしょう。ロス市警の堕落を批判し一貫してジョリーさんを擁護していますが、その人の行動やその善悪を云々したいのではなく、彼が布教のために有しているラジオ局というメディアが、たとえ小さくとも警察の不祥事、いやマフィア化・権力に胡坐をかいた悪行を世間に告発し浄化運動の大きなうねりを作り出したということです。ジョリーさんの悲劇よりむしろこちらこそがイーストウッド監督が言いたかったことなのではないか、と思うこともあります。次作『グラン・トリノ』に想いを馳せます。権力には対抗するチカラを持てと、毅然とした態度をとれと。でもこれも使い方次第なんですよね。ところでイーストウッド監督は死刑制度にはどういう立場なんでしょうか。

 出演者の演技はとてもすばらしいと思います。ロス市警の警部役のジェフリー・ドノヴァンさん、シリアル・キラー役のジェイソン・バトラー・ハーナーさんは今後のより一層のご活躍が期待されます。また連続殺人の手助けをし、事件解決のきっかけになった従兄弟の少年役エディ・オルダーソン君も賞賛したいと思います。

 例えば今、このような警察批判劇映画を日本で作れるのでしょうか。企業ありきの委員会映画では難しい気がします。4年前に完成されていた高橋玄監督の『ポチの告白』はやっと今年ロードショー公開されました。あるいは『金環食』みたいな汚職ものはどうでしょうか、『小説吉田学校』みたいな映画は成立するでしょうか。これだったらエンタテインメントとして成り立つかもしれません。でもなんだかんだとエグイ話はオミットされそうです。その筋のウラ通りも当然オミットされるでしょう。あくまでも政治群像劇として。誰よりもハリウッドに憧れていたはずの、でも無欲のような滝田洋二郎監督に先を越されてしまった原田眞人監督あたりがやりそうな気がします。ガンガレ!なんてったって『金融腐食列島・呪縛』だって忠臣蔵なんだから判りやすいよね(観てないのによく言うよ…)。とりあえず『ポリスアカデミー』レベルから始められないでしょうか。邦画が熱い!なんて言われてますけど、日本ではもはや児童向けアニメーションと人命を担保にした男と女の戯言しか作られないのでしょうか。21世紀の世界の片隅で“愛してるのに死にたくねぇ〜よぉ”ってナンなんだよ。そろそろ起きろよ、と上から目線。

  パンフレットは600円。印刷・成旺印刷/製本所記載なし/デザイン・KK DESIGN/編集・東宝ステラ。A4中綴じ左開き(横組み)表紙込み32P。表紙4P(表2は写真、表3は『フロスト×ニクソン』広告)、写真9P、イントロダクション1P、ストーリー2P、吉野朔実(漫画家)テキスト1P、黒沢清(映画監督)テキスト“イーストウッドは小津に近づいてる2P、アンジェリーナ・ジョリーのインタビュー1P、キャスト・プロフィール(アンジェリーナ・ジョリー1P・6名分1P)2P、クリント・イーストウッドのインタビュー1P、スタッフ・プロフィール12名分2P、ウォルター・コリンズ失踪事件紹介1P、プロダクション・ノート3P、芝山幹郎(映画評論家)テキスト2P、クレジットと奥付1P。イントロダクション、ストーリー、キャスト&スタッフ・プロフィール、プロダクション・ノートは公式サイトと同文、無料で読むことができる。ほとんどのテキストが流用となっていますので300円でお願いします。




公開資料

チラシ





 イーストウッド監督自身によるサントラ盤は16トラック入り2625円。ランブリング・レコーズより発売です。右の輸入盤の方がジャケットが素敵ですね。